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はてなダイアリーが終了するそうなので、石もて追われて引っ越してきました。内容はダイアリーのままなので、リンクなどでおかしな部分もあるのかもしれませんが、直すのもキリがないのでもう気にしないことにしました。今後ともよろしく。

フィクションにおける「思う壺」問題について

小説マンガ映画にアニメ、テレビドラマはほとんど観ないが、わたくしが摂取するフィクションのおよそすべてにおいて気にしているというか、考えてしまうというか、どうにも気になってしまうある基準が自分の中にある。それはここ十数年でだんだんハッキリしてきたものだ。この折にそのことを書こうと思うのだけど、今これを読んでいるそこのあなた、あなたはそんな知らんおっさんのどうでもいい内心など興味ないと思われることでしょう。それも当然だ、読まなきゃいい。でも書くのだ。

簡単に言えば、フィクションの中で(多くの場合)肩入れすべき主人公格の人物が、他者の「思う壺」になっているさまを見ると気になる、イライラする、時に作品自体を嫌いになる、まれに作者まで嫌いになる、ということがオレにはよくあるのだ。「思う壺」を「良しとする」作品を、好きになれないのだ。

記憶の中で最初にそう思ったのは1987年、中学生の頃に観た映画「アンタッチャブル」だったと思う。みんな大好きオレも大好きブライアン・デ・パルマ監督の、超カッコイイ映画である。しかし当時のオレには少々腑に落ちない違和感があった。もちろん中学生のわたくしなんてもう完全にクルクルパーだったからその理由はよく判らなかったんだけど、今なら判る。主人公エリオット・ネスの生きかたが気に入らなかったのだ。

ご存知だろうが「アンタッチャブル」は禁酒法時代、密造酒で儲けていたアル・カポネをとっ捕まえるお話だ。しかしよく考えなくても、禁酒法なんて悪法も悪法である。ネスは財務省の役人で、禁酒法がクソであると知りつつ「これは国の法律だ」と言いながら密造人や密売人をしょっぴこうとする。映画の結末、禁酒法が廃止になると記者に聞いたネスは「一杯やるよ」と答える。こいつは禁酒法をどう考えているのだろう、この男が拠って立つ正義はいったいどこにあるのかと中学生のオレはうっすら思い、しかしうまく言葉にできなかった。

ネスの中には信じる正義もなければ、自分だけの動機も、やむにやまれぬ衝動も在りはしないのだ。自分の生きかたを法律に丸投げし、人間の精神を放棄した犬なのだ。考えることを辞めた豚なのだ。こんなロボット小役人、まったくもって国家権力の「思う壺」なのである。禁酒法があるから酒はダメ。禁酒法がないなら飲みまひょか。コンニャク、コウモリ野郎、手のひら返し、権力の奴隷。こんな野郎は許せねえ気に入らねえ、ブン殴ってやる! というようなことをオレは映画を観た後、数年がかりでジワジワと理解した。一方、悪役のアル・カポネは誰の「思う壺」にもならない。徹底して自分のルールで生きている。この映画の真のヒーローは断然アル・カポネだ。オペラに感動して涙を流す、感受性豊かで真心あふれる男なのだ。気に喰わんやつはバットで撲殺、あしたはホームランや!

ちなみに今のオレはこれほど極端な意見ではない。劇中にはネスが法を踏み越える場面(フランク・ニティ殺害)もあるし、それほど一面的な映画だとは思ってない。ただ妙に印象に残る不思議な作品、いろいろヘンな映画だったなーと思っている。まあそれはそれとして、主人公が他者の「思う壺」になっているならば、もう物語そのものが信用ならねえんだ。ついていく気を失くしちまうんだ。そんな気分は年々強くなってきて、自分の中に一定の割合を占めるようになった。

近年、特に「思う壺」すぎてこりゃあ全然ダメだと思ったのがアニメーション映画「心が叫びたがってるんだ。」である。この映画に登場する青少年はどいつもこいつも大人の「思う壺」で、オレなんか自宅でのDVD鑑賞だったこともあり思わず「思う壺やないかーい」と声に出してしまったほどだ。連中、いらんことをやらされていることに疑問を持たなさすぎなのだ。学校や教員からすりゃあ、極めて扱いやすいガキどもであろう。青春映画の形をとっているものの、ここで描かれているのは大人の「思う壺」の範囲を決してはみ出さない「青春」なのだ。気に入らねえ、まったく気に入らねえ。ペッペッ。

少年少女を扱うことの多い媒体であるマンガやアニメでは、学校・部活・教員の「思う壺」になっている若者を頻繁に見かけることになる。「思う壺」になっていること自体に気づかず、青春してると思い込んでて、まあそれも君たちなりの青春なんだろうけど、ぼかー願い下げだなーと思うことが多い。中でも部活動なんて酷い。オレなんかそもそもなぜ学校教育に部活動というものが存在するのか、意味が判らない。納得できる説明を聞いたことがない。

京都アニメーションの超絶美麗アニメ「響け!ユーフォニアム」第1期第2話には、年度アタマに吹奏楽部にやってきた陰湿なメガネ顧問が右も左も判らぬ生徒たちを誘導してまんまとカタに嵌める場面がある。生徒らが顧問に感じた戸惑いや反感は話数が進むにつれてみるみるなかったことになり、生徒たちは顧問の言うことを盲目的に信じこみ、ひたすらコンクールを勝ち抜くことが唯一絶対の価値なのである、それしかないのであるという「常識」が共有されてゆく。なるほどこれが顧問センスというやつか。実に気に入らねえ、いたく気に入らねえ。しかしこれが部活動の本質に触れた描写であることは明白だ。

人間をブリンカー(遮眼革)をつけた競走馬扱いする斯様ななりゆきは、なにもこのアニメだけのことではなくて、これは「教育」という営みがどうしても持たざるを得ないダークサイド、コインの裏側なのだと言うこともできる。中でも存在意義すらよく判らぬこの部活動という土人の宗教は、このダークサイドを煮詰めた地獄に陥りやすい。少女マンガの「青空エール」(青空エール コミック 1-19巻セット (マーガレットコミックス))とかねえ、ぼくはホントどうかと思ったな。余計なお世話ながら、君たちもう少しこの世の仕組みを疑ったらどうかねと言いたくなった。

一方で、たとえば梶原一騎のマンガ「巨人の星」はいまだ世間的には根性至上主義のアナクロニズム、理不尽極まりないスパルタ教育礼賛マンガだと思われている節がある。これは実に浅はかな解釈と言わざるを得ない。「巨人の星」とは日本の敗戦をモデルとして、失敗した教育の犠牲となった若人の魂の彷徨を描いた悲劇なのである。とりわけ凄まじいと感じたのが星飛雄馬アームストロング・オズマの会話だ。2体の野球ロボットがいかに人生のすべてを野球だけに捧げてしまったか、どれほど他者の「思う壺」になって生きてしまったかを確認しあう、地獄の底から響いてくるような鬼気迫るやりとりだった。


このあと飛雄馬は歪んだ教育のために失われた自分の青春を、日高美奈との出会いと別れを経験することでついに獲得するのだ。それにしてもこのような視点を内包するスポーツマンガを、梶原一騎はなんと1960年代後半に発表していたのだから異常な先進性だ。これほど誤解され、侮られている作家も珍しい。今すぐノーベル賞を授与すべきだ。

黒澤明の映画「姿三四郎」では、教育の理想が描かれる。師の矢野正五郎に戒められた三四郎が池に飛び込み、杭にしがみつく。池に浸かって夜を明かした三四郎は、夜明けに開いた蓮の花を目撃する。無垢の美しさに心を奪われた三四郎が「先生!」と叫ぶ。即座に座敷の障子がバーン! と開き、矢野正五郎や兄弟子、和尚が縁側に飛び出してくる。

ポイントはふたつあり、まず蓮の花は、師が用意したものではなく三四郎が勝手に見つけたものだということ。矢野正五郎は、なんら恣意的な誘導をしていない。池に飛び込んだのも三四郎なら、蓮の花を見出したのも三四郎だ。ゆえにその感動は自分だけのものであり、終生忘れることがない。次に、三四郎の叫びに応じて障子が即座に開いたという事実。要するに矢野正五郎は弟子の身を案じ、明け方まで眠らずにずっと起きていたのだ。安易な手助けはせず、弟子が自分で悟るのを辛抱強く待っていた。なんという愛情だろうか。オレは驚愕した。三四郎にとって矢野正五郎は、生涯に一度しか出会えない師だったのだ。この師弟の美しさを、しかしこの映画は言葉や台詞では一言も説明せず、ただ映像で見せるのみ。「教育」も描きようによって、これほど美しいものになりうる。それは、ここに他者の「思う壺」の入り込む余地がないからだ。

他者の「思う壺」に嵌まらない自由な若者を描く今どきのアニメも、もちろんある。今年のはじめに放送された「宇宙よりも遠い場所」では、主役の4人の女子高生が、くだらない世間や学校の思惑から大きくはみ出る旅に出る。これ見よがしに反抗するでもなく、ただ目線の高さ、志のスケールの差で鮮やかに飛び越えてみせるのがいかにも現代的だった。ハナから学校なんぞに何も期待していないのが清々しい。わたくしの如きおっさんはすぐ青春の殺人者と化してテロリズム敢行、バットで撲殺しか思いつかないもんだから、「宇宙よりも遠い場所」には本当に心洗われたものでしたよ。

アニメ「BANANA FISH」とわたくし

「BANANA FISH」というマンガ、世評は高く傑作とされており、大ファンだと公言する友人もいて、フーンそうなんだ、いっぺん読んでみようかなと思って実際に読みかけて、数十頁くらい読んだら興味をなくして読むのをやめる、ということがわたくし過去に3回くらいあった。好きも嫌いもないけれど、なんとなく相性が悪い。なぜだかどうも興味が持てない。そういう作品も、たまには存在するものだ。ちなみに同じ作者の「海街dairy」は、まだ完結してないけど好きだ。とてもいいマンガだと思う。実写映画版はあまり気に喰わない。(ついこないだ完結したらしい。知らなかった)

BANANA FISH Blu-ray Disc BOX 1(完全生産限定版)

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さてそのような「BANANA FISH」がフジテレビノイタミナ枠でアニメ化、制作はMAPPA。上記のような私的な因縁があり、しかし傑作と世評の固まっている作品、この機会に観てみようと思った。設定を現代にすることに対する原作ファンの悲鳴と怒号はweb上で観測していたが、オレはこのマンガに思い入れがあるわけじゃなし、なにしろそもそも読んでないし、お話を把握するくらいはできるだろうと踏んでいたのだ。で、第1話を観たわたくしのツイートがこれ。




まーよくある拳銃ヘッポコ描写への、まーよくあるツッコミです。アニメ「BANANA FISH」の監督はかつて京都アニメーションでイケメン水芸アニメとか作ってた女性で、あんまり銃とか興味なさそうな感じだ。このアニメを観た人なら誰でも呟きそうなこの軽口がなぜかどんどんリツイートされ、その数が100や200を超えたところでわたくしもビビってたじろいだ。言うてもまだこのアニメは放送が始まったばかり、この時期に悪い評判をたてるのは本意ではない。不出来なクソアニメなら、他に幾らでもある(悲しいかなホントに幾らでもある)。これはむしろ、「出来がいいアニメの中に」このような描写が含まれていたために目立った違和感だ。

上記のツイート、上2つは一昨日深夜と今朝のものだが、今日の夜になってもまだRT通知音がヘホーン、ヘホーンと鳴りやまない(TwitterクライアントのJanetterをそのように設定していたので)。こうなるとあとはもう自動的に増えていくだけ、もともとはガンマニアでもないオレが発したしょうもないツイートが、いまやナウシカ原作版の粘菌のようにweb上に拡散してしまった。この群体レギオンは、制作スタッフの方々の目にも入ることだろう。申し訳ない気持ちだ。とはいえ、この描写をきっかけにまたしてもオレは「BANANA FISH」に冷め、REC予約を削除する程度には興味をなくしてしまった。そういうこともあります。そういうこともある。

追記

Twitterでもブクマでも「アイソセレススタンス」について何度か指摘されているが、どうぞアニメ観てくださいとしか言いようがない。この場面が近接戦ではなく動く目標への遠距離射撃だということと、目標の車には金髪の弟分みたいな少年が乗っており(あと巻き込まれた日本人も)誤射が許されぬ状況であるということ。そんな難しい射撃を拳銃でやっちゃう肚の据わった凄腕兄ちゃん、という場面なんだから両目照準は演出としてどうなんかなーと。こいつ弟分の命はどうでもええんかなと思われかねない描写だと思う。射撃術が間違ってると言ってるんじゃなくて、演出が間違ってるんじゃないの、という話。よろしくご理解を。

「ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク」とスピルバーグとぼく

昨晩金ローでやった「ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク」を観た。先日の高畑勲作品といい、こいつ金ローばかり観てやがるなと思われても仕方ないし、まあそうなんだけど、これはたまたまであって、テレ東の午後ローとかも観ています。以下「ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク」の感想。当時の劇場では観ておらず、初見はVHSソフトだったので、2度目の鑑賞。

唯一心を奪われたのが、ビデオレンタル屋の店内にバスが突っ込んでくるカット。バスからギリギリ逃げる客たちが凄いスタントだと思ったのだが、これもCG使ってんのかな。 ★1


バカとバカとバカと大量のバカしか出てこないため誰にも肩入れできぬばかりか終始イライラさせられる本作は、マイケル・クライトンの原作小説と脚本参加を待たずにデヴィッド・コープが単独で勝手に書いた知能指数ゼロの脚本を、ティラノサウルス本土上陸を撮れることに目がくらんだスピルバーグが何も考えずに早撮りしたものだ。


これによって判ることは、クライトンが娯楽小説の中で曲がりなりにも表現しようとした科学への疑念や生命倫理といったテーマをスピルバーグは何ひとつ理解しておらぬばかりか興味も一切なくて、前作のそういった部分はただ脚本通りに撮っただけで、本当に興味あったのは恐竜の挙動とダメオヤジの成長、本質からズレたどうでもいいサスペンスごっこのみにすぎなかったということだ。


我々は、スピルバーグさんのこういうアレなところを理解してあげなくてはならない。『激突!』も『ジョーズ』も、そういう子供じみたスピルバーグだから作ることができた傑作だった。つまりクライトンの着想と作劇を借りた前作『ジュラシック・パーク』よりも本作『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク』こそが、スピルバーグの本質的な作家性があらわれたド真ん中の作品なのだ。誰だって、そうは思いたくないよな。オレも思いたくないよ。しかしスピルバーグが徹底してディレクター=演出家であって、ストーリーテラー=脚本家ではない、ということなら同意いただけると思う。


それにしても我々の愛する娯楽映画の申し子スピルバーグが、連結型キャンピングカーが崖から落ちるかどうかドキドキですね! と頑なに言い張るズレたオッサンであることを認めるのは辛いことだ。しかしインディ・ジョーンズ映画なんて全部ズレたドキドキで構成されたカラッポ映画で、そうと薄々知りつつみんな喜んでたんだから、この辛さは引き受けなくてはならないよな。


我々の世代の巨匠スティーブン・スピルバーグさん、お好きな方は多いだろうが、わたくし個人は「オレはスピルバーグが好きなんスよォー、大好きッ!」とは全然思っていない。本気で死ぬほど好きなのは「激突!」と「ジョーズ」のみで、大きな声では言えないけどかなり好きなのは「1941」だが、他はそうでもない。「プライベート・ライアン」を、もう一度観てみなくてはと思っているくらいだ。インディ・ジョーンズは全部嫌いだ。「E.T.」は最も重要な映画と思うが、好きかといえばこれも違う。頭いい路線は、すべて信用していない。


製作作品なのであんまり関係ないが、みんな大好き「グーニーズ」もオレの大嫌いな映画のひとつだ。12歳当時劇場で観て、オレをバカにしてんのかと呆然としたものだ。いまだに同世代の映画好きが「グーニーズ」を好意的に語るたび、居心地の悪さを勝手に感じている。しかし今にして思えばあれは製作スピルバーグの映画でも監督リチャード・ドナーの映画でもなく、脚本クリス・コロンバスの映画ですわな。


スピルバーグの功はたくさんの人が語っているので、ここでは罪のほうを書いておきたい。上記ジュラ2の感想でも書いたような、本筋に関係ないどうでもいいサスペンスを尺かけて長々と展開するという恥知らずな映画作りを始めたのは、他でもないスピルバーグだと思うのだ。ジュラ2より遥かにマシだった前作「ジュラシック・パーク」においてさえ、樹の上から車が落っこちてくる、あぶなアーい! という、クッソどうでもいいサスペンス場面があった。本筋とも観客の興味とも何ら関係ないため、実はサスペンスとして成立さえしていない。出来損ないのイベントを脈絡なく「置きに行く」ようなこういう展開を、なぜかスピルバーグは好んで作る。インディ・ジョーンズは全部これ。そして凡庸な作り手たちほど非常にこれをよく真似するために、この悪癖はアメリカ娯楽映画にひとつの潮流を作り、全体のレベルを下げたと言ってもいいと思う。ジェームズ・キャメロンのような腕の立つ作家は、絶対にこんなことはやらない。


スピルバーグもいつか死んで、その時はみんな手放しで誉め讃えるのだろう。映画の申し子、映画の神様、映画の良心とさえ言われるだろう。本当に死んだらこの記事のようなことが言いにくくなるので、彼が死ぬ前に書いておいた。そういうことです。

高畑勲作品を2本、テレビで再見

2018年4月5日に高畑勲が亡くなった。正直言って、超悲しいですぼく泣いちゃいます、とは全然思わなかった。そうか死んだのかあ、と思っただけだ。その死をまっとうに悲しむには、オレにとって高畑勲は怪物すぎた。

東大仏文科卒のスーパーエリート高畑勲は思想の人で、豚であるところの大衆、つまり我々度し難き愚民を水槽に入れて観察し、その研究と描写に生涯を費やした人という印象がある。たぶん高畑勲個人はいい人だと思うのだけど、創作では客観的で突き放した、圧倒的に冷徹な作品を作る。

4月13日、日テレは緊急追悼で「火垂るの墓」を放送した。RECしといて、後日久しぶりに観た。公開時に「となりのトトロ」との二本立てを劇場で観て、VHSのビデオソフトで観て、テレビ放送も1回は観たと思うので、たぶん4回目か5回目の鑑賞だ。

公開当時、野菜泥棒した清太を百姓が殴る場面は未完成で、無着色の線画のままだった。高校1年だったオレは「斬新な演出! さすが高畑!」と感心し、まさに高畑勲に叱られても仕方ない明き盲っぷりを露呈した。それでもいわゆる単純な反戦映画ではないことは、2回目くらいの鑑賞で判っていたと思う。

今回観てみて驚愕したのが、清太が節子に恋人や母親の役を投影し、近親相姦願望を持っていたことを明確に描いている点だった。節子の死後、清太の幻想として描かれる一連のアイドルビデオみたいな場面が凄い。おヌードは勿論、ふりむいて笑顔とか、針仕事=世話焼き=甘やかしプレイとか、敬礼(ミンメイ!)とかひと通りやってみせる。ゾッとするほかない。

「節子は私の母になってくれたかもしれない女性だ!」 とくれば、これは完全にシャア・アズナブルである。まさか神戸弁の中学生と、宇宙翔ける赤い彗星が重なるとは思わなんだ。

節子自身は幼女なので、普通に母を求めて泣く。だが母の無惨な姿を目撃DQNしてしまった清太からは母を慕う気持ちが消え失せてしまい、その代償に節子にとことんのめり込んでいく。この感じが本当に危ない。そこに節子の意志はもはや存在せず、清太は恋人や母親の依代、偶像、人形として節子を愛でてしまう。押井守の「イノセンス」より16年早い。

きれいに死んだ節子を、腐敗する前=母のように醜くなる前に速攻で焼く清太が涙ひとつみせないこのブッ壊れた感じ、マジでイカレてる。本当にヤバイ怖い映画が何かの間違いでテレビで放送されていて、しかし日本中みんな感動して泣いているのだ。なんだこれすげえ。宮崎駿が悪魔と契約した表現者なら、高畑勲は表現の悪魔そのものだ。

5月15日には三鷹ジブリ美術館高畑勲のお別れ会があり、宮崎駿が涙ながらに読んだ弔事ならぬ開会の辞、その内容を報道で知り、動画も見た。オレは冷たい人間なので、フーンなるほど、そうかー。と思っただけだ。

追悼気分さめやらぬ5月18日、日テレは「かぐや姫の物語」を放送した。これもRECしといて、後日観た。劇場2回とDVD以来、4度めくらいの鑑賞だ。

かぐや姫の物語」公開時、印象深い感想のひとつが雨宮まみさんの記事だった。

『かぐや姫の物語』の、女の物語 戦場のガールズ・ライフ

不思議な縁で一度だけ、生前の雨宮さんと同席する機会があった。きれいな、花のような人だと思った。正直言って雨宮さんや女性の多くがいかに生き辛く、どれほど抑圧されているのか、がさつなおっさんのオレには想像すれども本当のところはよく判らない。それでも、この感想には胸を衝かれた気がしたものだ。まあそれはそれとして、オレはオレのがさつな感想を書くしかない。

以前書いた感想はこれ。
観たぜ「かぐや姫の物語」 挑戦者ストロング
「かぐや姫の物語」 追記 挑戦者ストロング

今回の放送を観て、発見がひとつあった。映画の後半、かぐや姫が月に帰らねばならぬとなった後、屋敷の中の作業小屋でわらべ唄の続きを唄う場面。ここに妙なインサート映像が3カット入るのだ。まず夕焼けの海と陸、雁の群れ。次は海辺を空撮でトラックバック、駆けてきた男と幼子が波打ち際で立ち止まる。最後は海辺に立つ松の木の下で、月を見つめる男と子供(2カット目より少し大きいようだ)。

 
 

劇場での初見時にはなーんだ妙なカラオケ映像だな程度の印象で全然気にしてなかったのだけど、今回観てびっくりした。松があるのは松の原、つまり三保の松原、ということはこれって「羽衣伝説」の結末を描いてるんじゃないのか。2カット目は地上を離れ天に去る天女の俯瞰視点で、砂浜を走って見送る夫の漁師と我が子の姿を。3カット目は天女が去った後、かあちゃんを思って月を見つめる父子の姿。ま、羽衣伝説のストーリーは常識だろうからここでは説明しない。Wikipediaの「三保の松原」の項には、上記インサート映像1カット目とほとんど同じ構図の写真が載っているので参照されたい。

オレは昔、能の「羽衣」を観たことがある。観世流だった。この「羽衣」では天女は漁師からすぐ羽衣を返してもらい、その場で天女の舞を踊る。幽玄なる舞に漁師と我々が陶酔するうちに、天女は天に帰ってしまう。「E.T.」を色っぽくしたようなお話だった。そういえば、手塚治虫の「火の鳥」にも羽衣編というのがあった。舞台劇をそのまま漫画にしたような実験的なやつで、あまり好きじゃなかったが。

さてアニメに戻ると、唄い終えたかぐや姫は嫗にこう言うのだ。

「遠い昔、この地から帰ってきた人がこの唄を口ずさむのを、月の都で聞いたのです」
「月の羽衣をまとうと、この地の記憶は全てなくしてしまいます」

マジか。「羽衣」の天女は、かぐや姫のパイセンだったのだ。「羽衣」はいつの話なんだかよく判らなかったんだけど、さっきネットで調べたら奈良時代に編まれた「風土記(古風土記)」によるものらしい。この映画は劇中設定を平安時代としているから、時系列上も確かにパイセンなのである。

つまり高畑勲のヨタ話はこういうことだ。「羽衣」の天女は月から奈良時代の地上にやってきた。この天女はあろうことか地上で愚民と結ばれ子をなしたので、事態を重く見た月世界当局は天女を本国へ強制送還し、記憶を奪ってしまった。天女が覚えているのは、地上のわらべ唄のみ。その不思議なわらべ唄を聞いてしまった月人の少女は生命の坩堝たる地球に憧れちゃって仕方なく、決死のテロリズム精神で大気圏単独突入。平安時代の竹林に落っこちて、翁に拾われた。羽衣伝説と竹取物語を股にかけた、壮大なクロスオーバー作品。今川泰宏監督の「ジャイアントロボ THE ANIMATION 地球が静止する日」かよ。

そうと判れば、月に赤ん坊の姿が重なるラストカットの説明もつく。あれは地上におけるかぐや姫の幼少の姿の回想かと思ってたが、そうであれば月と重なるのは具合が悪くて変なのだ。あれは、姫がこれから生む赤子の(未来の)姿なのだ。なにしろ姫は、地上のマイルドヤンキー捨丸兄ちゃんと空中セックスして身ごもっている。生まれてくる赤子は成長し、地上のすべてを忘れた母こと元かぐや姫がブッ壊れたレコードプレイヤーのように唄うわらべ唄に魅了され、いつの日か地上にやってくるのだろう。歴史は繰り返す。赤子の性別は判らないので、今度はどの昔話に登場するキャラクターになるのやら、想像もつかない。海に落ちて竜宮城の乙姫になるか、スケール間違えて一寸法師になるか。これが高畑勲の、まんが日本昔ばなしスーパースター列伝構想なんだよ! な、何だってェー! 高畑監督、さようなら。

追記

オレは「かぐや姫の物語」で大嫌いな場面があって、それは何かといえば捨丸パイセンと空飛ぶ場面だ。背景を3DCGで処理しており、クソつまらないこと甚だしい。高畑勲らしからぬ、明らかな手抜きだと思うのだ。ここは絶対全作画で描くべきだった。パースが狂ってもいいんです。それが味ってもんです。たとえば海外アニメには「スノウマン」という佳作もあり、高畑勲が知らぬわけはないのだが。

スピルバーグ翁と遊ぼう 「レディ・プレイヤー1」

公開初日に「レディ・プレイヤー1」を観てきた。前座に「パシフィック・リム:アップライジング」を観たのだけどこれがダラダラ冗長な映画でガッカリしたので、直後に観た「レディ・プレイヤー1」は非常に楽しめたよ。

以下感想ですが、決定的なネタバレを含むので未見の方は絶対に読まないように。予告編にも一切出てない大ネタがあります。

スピルバーグは地球に残る人 (★3)

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同情の拍手はいらない 「シェイプ・オブ・ウォーター」

アカデミー賞が発表されたから、というわけでもないのだけど「シェイプ・オブ・ウォーター」を観てきました。あんまり気に入らないんだろうなという事前の予想が当たってしまった。以下の感想では結構悪口書いてますが、まあアカデミー賞とったんだからいいだろう。ネタバレありますのでご注意を。

よせ、野暮になる。(★2)

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「ひるね姫」で出たヘドを

ひるね姫 知らないワタシの物語」をブルーレイで観た。ま、評判もあまりよろしくなかったこの映画を観た人も少ないのでしょうが、これが実にひどい作品で、早速怒りの感想を書いたものの、先日からCinemaScapeが落ちており投稿できない。はてなダイアリなんかに酷評を載せると以前の「スカイ・クロラ」の如くプチ炎上してめんどくさいことになるかもしれんのだけど、まあ押井守作品に比べりゃファンも少なかろう、と思ってここに載せる。一応ネタバレありますが、もはやネタバレとかいう問題でもあるまい。

ヘドが出ます! 大っ嫌い!!(★1)

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ネタバレ前に観ましょう 「スリー・ビルボード」

スリー・ビルボード [Blu-ray]

スリー・ビルボード [Blu-ray]

マーティン・マクドナーさんは、もともとアイルランドやイギリスの演劇の世界の人だそうだ。わたくし演劇のことはサッパリ判らないのだけど、この人が作った映画はなぜか観てて、「ヒットマンズ・レクイエム」も「セブン・サイコパス」も非常に面白かった。
ヒットマンズ・レクイエム (字幕版)セブン・サイコパス Blu-ray

ということで評判の高い新作「スリー・ビルボード」を観に行ってきましたよ。いやーこれがまた凄い映画で。まだ観てない人は、以下の感想も読まないほうがいいです。すぐ観に行ってください。

リアルは地獄 (★5)

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アクラム・ペールワンの国で 「娘よ」

amazonビデオの有料レンタルで、パキスタン映画「娘よ」。監督・脚本・製作はアフィア・ナサニエルという女性で、初監督作品。内容は公式サイトでも読んでください。

http://musumeyo.com/

マッドマックス 怒りのデス・ロード」と酷似した映画が、その前年にパキスタンで作られていたとは興味深い。僅かな瑕疵はあれど、力ある見事な映画だ。(★4)

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「スター・ウォーズ/最後のジェダイ」


あんまりテンション上がらなかった「最後のジェダイ」だが、年末に観てみたら存外楽しい映画だった。ただそれで済む訳もなく、以下のような感慨を抱いた次第。ハッキリ言って創造的才能と高潔な志を持つ映画監督は「スター・ウォーズ」に関わってはいけないし、関わっている場合ではない。つまり仕事師J・J・エイブラムスというのは絶妙のはまり役だったのだ。今回のライアン・ジョンソン氏はどうだったんだろうな。

楽しい映画ながらどんくさい部分も多く、眼高手低の誹りは免れまい。好きな場面も少なからずあるんだけどな。(★3)

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