それは観られるものなのか

「感情移入で世界を理解する」と書いたのは筒井康隆だった。湾岸戦争当時に書かれたそのエッセイは、イラクに欧米の理屈を押しつけてもいいことはない、イラクの文化風習ものの考え方を学び相手の身になってみないと対話そのものがなりたたない、その鍵は感情移入であり、文学においてもその鍵は重要だ・・・といったような内容だった(思いっきりうろ覚え)。「もし相手の立場なら! これは重要な思考法だぞ」とジョジョ第一部のツェペリさんも言ってた。
映画でも小説でも、およそ物語と呼ばれるものが人を引きこむ不思議な力とはいったい何だろうか。オレはそれを「感情移入」だと思うのだ・・・と書きつつ、実は「感情移入」という言葉は全然適切ではない。登場人物の身になって肩入れする、ということには限らない。物語や登場人物に「感情が乗る」とでもいうか、受け手の中に積極的に物語につきあうための理由、根拠、動機が生まれるように持っていくことだ。たとえば、普通聞いてられないような退屈な話でも、それが惚れた女の身の上話なら聞ける。たとえば、こいつには正義があるなと感じたやつの熱弁なら聞ける。悪いやつなら、こいつは次にどんな悪いことをするんだろうと思って見てしまう。ここでいう感情とは喜怒哀楽だけではなく、「興味」「好奇心」「知識欲」「スケベ心」など様々なものだ。そしてそういう「つきあう動機」を喚起できない物語は受け手にとって他人事にしかならず、見ちゃいられないってことになる。
「物語」と曖昧に言ったけど、ノンフィクションでも同じことだ。これはテレビ的な考え方だと自分で思う。「映画は芸術」寄りの人々からは軽蔑されるんだろうが、ナニ構いやしない。