見送りカットに感じる違和感

昨日書いたことは、早い話が人は面白いもんは見てくれるけど、しょうもないもんは見てくれないよという簡単な話だった。続きは置いといて、ちょっと道草を。
昨日のペペロン兄貴のひとりごつ(リンクは張らねえ)を読んで、改めて思ったことがある。映画を観ていて「見送りカット」に感じる違和感のことである。これは結構よく見かけるありふれたカット割りなのだが、例えば

  1. 駅のホームに立つ女、電車に乗る(カメラはホームの上)
  2. 電車、ドアを閉めて走り出す。去っていく電車(カメラはホームの上)
  3. 車内、座席に座る女(カメラは電車の中)

このカット2とカット3のつなぎに、妙な違和感を感じるのだ。それは気にしなければ気にならない程度の違和感ではあるが、こういうカット割りを見るたびにオレはほんの一瞬混乱してしまう。え、さっきオレは電車を見送ってたやんか。と思ったらいきなり電車の中かい! という思いが一瞬脳裏を掠めるのだ。
同様のカット割りで非常によく見かけるのが、登場人物がエレベーターに乗る場面である。

  1. 1階でエレベーターのドアが開き、女が乗る(カメラは1階フロア)
  2. ドアが閉まり、女は見えなくなる(カメラは1階フロア)
  3. エレベーター内、女の顔(カメラはエレベーター内)

これもカット2とカット3のつなぎに違和感を感じる。理由は電車と同じである。
どちらの場合もカット2で一度「見送った」ものが、カット3で突然「一緒にいる」ことに引っかかりを感じるのである。
オレが疑問なのは、こういう違和感を感じ、意識しているのはオレだけなんだろうか? ということだ。おいおまいら、このカット割りおかしいよな! と思うのだけど、こういうカット割りに文句を言う人をオレは見たことがないし、現実にもこういうカット割りをよく見かけるということは、これがとりたてて問題視されていないということではないのか、とも思えるのだ。実際どうなんだろう、これはホントにオレにはわからない。カット割りがおかしいのではなく、オレの頭がおかしいんだろうか。しかしオレには上記のような例が非常に無神経なカット割りに思えるし、けっこう本気でオレは蔓延する「見送りカット問題」をなんとかしてほしいのである。
ちなみにオレが違和感を感じないカット割りはどういうものかというと、人物の動きに遅れることなくカメラがついていくカット割りである。オレならこうするという例を電車の場合で書いてみると、こうなる。

  1. 駅のホームに立つ女、電車に乗る(カメラはホームの上)
  2. 電車、ドアを閉めて走り出す。窓の外の景色が動き出す(カメラは電車の中)
  3. 車内、座席に座る女(カメラは電車の中)

つまり電車が止まっているうちに、カメラも女と一緒に電車の中に乗ってしまえということである。そのほうが自然だし、人物に乗せた感情の糸が途切れないから、ほとんどの場合こっちのほうがいいと思うんだがなあ。