「カリスマ」の娯楽、オレの娯楽

先月、「たまには新進邦画でも観るか」という機運がなぜか突然盛り上がり、黒沢清の「カリスマ」、青山真治の「シェイディー・グローヴ」を連続で観て不幸のドン底に叩き落されるという経験をした。両作品のオレの評価はCinemaScapeに書いたとおりである。「カリスマ」は全然面白くなく、映画というよりゴミに近いとオレは思った。前述した「積極的に物語にのめりこむ動機を客の中に喚起できない映画は、誰も見ちゃくれない」は「カリスマ」を想定して書いたものだ。では「カリスマ」に娯楽性がまったくないかというと、実はオレはそうは思っていない。「カリスマ」をごっつい楽しんでいる層は実在する。
有体に言えば「ワタシ「カリスマ」のような知的な映画がわかる知的な人間デス・・・」というスタンスに価値を見出す層のことである。「カリスマ」は読み解かれることを前提とした映画だ。オレは「カリスマ」が知的な映画だと言っているわけではない。それは「奥深い映画」でも「深遠なテーマの映画」でも「芸術的な映画」でも「オシャレな映画」でも「とんがった映画」でもなんでもいいのだが、とにかくそういった一種のファッション的な満足を一部の人々にもたらす映画ではあると思う。そして「カリスマ」はそのマーケットの中でしか意味を持ち得ない映画だ。それがいいとか悪いとかではなく、そういう現象が現実にあるということだ。
で、ここから1人の観客であるオレ自身の話だ。オレはそういうファッション的快楽にまったく興味がない。例えば、同じようなスニーカーでもナイキのマークがついているかいないかで値段が全然違う。ナイキマークに価値を見出すことが悪いとは思わないが、オレはナイキのスニーカーは高いから買わない。靴流通センターでたくさんだ。オレが靴に求めるもの(ハダシじゃなきゃいいや程度のこと)は靴流通センターの靴でも充分満たしている。だったら安いほうがいい、安いほうが「すぐれている」というのがオレの考え方だ。ナイキのほうがカッコいいじゃんと言われても、高い金払ってまでそのカッコよさはオレいらないなあと思うばかりなのだ。というか靴すらあんまり履かなくて、日常はサンダル履きだ。今、なんとなくこの喩えは間違ってたような気がした。
「カリスマ」が凄いとして、映画なんか寅さんくらいしか観ないそこらのおっちゃんおばちゃんに「カリスマ」の凄さがわかるんだろうか。寝るだけだ。わかりゃしないのである。そしてここが一番重要なのだが、「伝わらない凄さ」はオレにとっては「凄くない」と同じことなのである。世の映画の大半はまず「伝わった」うえで「凄い」「凄くない」という評価に晒されているのであって、その「伝える」こと、これは世間の人が想像する以上に大変なことなのだ。大半の映画はそこを頑張って乗り越えてきて、めでたく劇場で上映され、褒められたりけなされたりする。
「カリスマ」がわかる人だけわかってね、読み解ける人だけ読み解いてねというスタンスなのはかまわないのだが、それはインテリでも高尚でも深遠でも難解でもなくて、単にマニアックなだけだ。黒沢清という誰も知らない映画監督(おっちゃんおばちゃんは黒沢清なんか知らねえですよ)を好きな人が「おっ、今度はそう来ましたか」と言っているだけだ。それはオレがAVを観て「おっ、ついに加藤鷹との絡みですか」と言ってるのと基本的に同じことだ。そしてそういうマニア的視点にのみ頼りきって安心し、スノッブに囲まれた安全地帯の中でぬるい笑顔を崩さない「カリスマ」という映画のプランは安易すぎて、オレは支持しない。大前提としてオレがこうあってほしいと思う「映画」はおっちゃんおばちゃんにも伝わり通用する映画、少なくとも伝わる映画たらんと努力する映画だ。映画の評価は、その先にある。

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