印象に体を張れ

「印象批評」って言葉は筒井康隆の「文学部唯野教授」で出てきたのでなんとなく知っている。文学を印象だけで批評してちゃどうにもいいかげんだから、文学を批評するためのもうちょいちゃんとした理論を作ろうぜ、そしてその理論に沿って批評しようぜ・・・てなわけで様々な文学理論が生まれたらしい(うろ覚え)。率直に言って、オレは印象批評しかよくわからない。そして「まあでも、それでいいや」と思っている人間だ。
「印象」というのはなかなか厄介なもので、最低限これをコントロールできてない映画をオレが高く評価することはあんまりない。映画では、思想よりも理論よりも「印象」に巨大な力があるとオレは思う。例えば、オレにとっては神にも等しい存在のブルース・リーという人がいる。彼は映画で大きく世界を変えた数少ない人間の1人だ。彼について語れることはいくらでもある。武道、思想、哲学、西洋、東洋、文化などなど、彼を讃える理屈なら一晩中だって喋っていられる。しかし決して忘れてならない大前提は、まず彼が強烈な印象を与えるメチャクチャカッコいい男であり、世界中の誰もが彼に憧れて彼になりたくてヌンチャクを振り回し、細かい仕草をマネし、怪鳥音を発して回し蹴りをキメようとしたら鏡を割ってしまいオカンに怒られた経験を持つという歴史的事実である。印象なくしてその巨大な影響力はなかったのだ。そして彼が与える特別な「印象」は単なる見た目や演技を超えたものであり、やはり彼の思想、哲学、理論、経験に裏付けられた、「気配」すら含むブルース・リー以外にはありえない佇まいであったということも明白だ。「印象」というものは、なかなか一筋縄ではいかないものなのだ。
印象を非常に重んじたいオレのものの見方は、昔から見続けてきたプロレスの影響もあると思う。プロレスは客に「どういう印象を与えるか」が非常に大切なジャンルで、しかし安易なテーマとプランによって作られた印象はあっという間にリングを取り囲む観客に見抜かれてしまうという恐ろしい世界だ。これはホントに残酷なほど見えてしまうから、リングという場所は恐ろしい。例えばアントニオ猪木という人は、印象の天才である。
また、オレが昔から特撮が好きだということも影響しているのかもしれない。特撮は、ただ現実をリアルに模倣してもあまりいい効果を生まない。例えばミニチュアはどんなに精巧に作ってもミニチュアであって、「どういう印象を与えるか」というプランを抜きにしていい特撮は生まれない。円谷英二なんか印象の天才だった。
映画の作り手には、「印象」に鈍感であってほしくない。印象は感情移入や興味の入り口になるし、作り手が観客の心理を誘導するための最大の武器だ。そして観客の記憶の中で時間に劣化されない映画とは、決して素晴らしい思想を語ってくれた映画ではなく、様々な批評理論に適った映画でもなく、鮮烈な印象を与えてくれた映画だと信じている。