あなたのスター、わたしのスター

オレはマヤノトップガン有馬記念から競馬を始めた。人と競馬の話をするとき、その人だけの「オレの馬」の話を聞くのが好きだ。例えばオグリキャップと同時代を生きた人は、オグリと自分がどう関わったかというその人だけの物語を持っている。それを聞くのが好きだ。スターホースの名は相手の年代によって変わる。ナリタブライアンミスターシービーテンポイント。オレは自分が体験できなかった濃密な時間を想像し、ただただ羨ましがる。勿論、オレにもそういう馬はいる。前述のマヤノトップガンをはじめ、ホクトベガグラスワンダーダンスインザダークメジロドーベルなどなど。彼らと絡み合うように生きた時間と失った現金はかけがえのないオレの財産になり、歴史になった。
オレの父は昔からプロレスに対して無関心で、世間並みの蔑視感情以上のものは何も持っていない。だからオレは父とプロレスの話はほとんどしないのだが、それでも父が若い頃に「高松に巡業に来た力道山ジェス・オルテガを生で観た」などという話を聞くと、羨ましいと同時に巨大な敗北感を感じる。オレにとって力道山は永遠に手の届かない、神話の世界のスターだ。残された力道山の映像を観ることはできるけど、後づけでいくら勉強しても「力道山と同時代を生きた」という体験には絶対に勝てない。力道山は父のレスラーであって、オレのレスラーではない。うろ覚えだが、古館伊知郎の名文句にこういうのがある。

ビートルズはお兄ちゃんのものだった。安保闘争にも間に合わなかった。我々がはじめて自分で発見し、のめりこみ、共に生きた存在はアントニオ猪木だった。

さて現代のスターたちは、こういった幻想を背負えているのだろうか。オレが世間に疎いだけなのかもしれないが、オレにはどうもそう思えないのだ。それはスターにも原因があるのかもしれないが、スターを過剰に愛する幻想が生まれにくい時代の気分のようなものをオレは感じる。根拠などないが、とにかくそう感じる。スターを過剰に愛するということは、スターと共に傷つく覚悟があるということだ。傷つくことを無意識に恐れるやつは絶対にスターに深入りしない。そして現代とは、そういうやつらが世間の中でかなりの割合を占めてきた時代なのだ。深入りしないやつにとって、スターは単なる使い捨ての対象になりさがる。例えば音楽業界なんか進んでいて、使い捨てとして割り切ることで賞味期限の短いスターもどきが何百万枚ものCDを売る。スターは消費され、カラオケで歌われまくり、飽きられ使い捨てられる。それがビジネスとして成立し、成熟しているのがオリコン上位の世界だ。例えばイチローがなんぼ凄いか知らんが、いや凄いってことぐらいはオレも知ってるんだけど、そういった意味でイチローのファンと長嶋茂雄のファンは明らかに意味が違うとオレは思っている。イチローが「イチローと共に絡み合うように生きるファン」を生みだしているとは思えないのだ。イチローファンの大部分はいわゆる「平成のデルフィンたち」*1というやつだ。偏見と言われれば返す言葉もないが、これがオレのいかんともしがたい本音である。
この話続く。

*1:週刊ファイト元編集長・井上義啓用語