ジュール・ヴェルヌ

「カレル・ゼマン」から続き。
現代において、ヴェルヌの小説が語られているのを目にする機会はそう多くはない。多くはないが、オレはそれを目にしたときに必ずといっていいほど独特の違和感、引っかかり、妙な居心地の悪さを感じるのだ。それは、ヴェルヌを賛美する文章の中にもかなりの確率で感じられる。
オレが感じる違和感の正体とは、ズバリ言ってヴェルヌを神棚に祀り上げ、それでよしとする空気である。ヴェルヌの小説を真っ正面から受け止めず、過去の遺産としてのみ評価すればよいという空気。なにぶん空気なので誰それがこれこれのことを言ってた、なんて具体的な話はあんまりできないのだが、それでもひとつ思い出したのはハヤカワの「SFハンドブック」(ASIN:4150108757)における川又千秋、高橋良平両氏による対談である。以下、部分的な引用。

川又
「ことほど左様で未来に対してシリアスな思いを投げ掛ける種類の小説は、未来から押し寄せてきた波で洗い流されてしまう側面というのはあるんだよね。(略)ウエルズとかヴェルヌの小説みたいに一時期乗り越えちゃうと問題ではなくなるんだろうな。小説自体の出来がいいと残っていく」
高橋
「それは下品な言い方をすると、腐りかけなんですよね。腐りかけているから、うまそうに見えなくて、ヴェルヌみたいに腐りきって・・・」
川又
「ワインになっちゃうという(笑)」
高橋
「それはそれとして楽しむことができる。時間線が違う、もうひとつの世界、ファンタジイに近いものとしても読めるわけね。まあ、作品が本当に良かったってこともあるけど(略)」

これはSFの未来予測は時間によって否応なしに劣化されていくという話であって、別にヴェルヌの文学性を論じているわけではない。小説自体に関しては、両氏はむしろ手放しで賞賛している。にもかかわらず、オレは強い違和感を感じたのだ。
そうだ、結局オレはヴェルヌの小説を「腐りきってワインになった」などとはビタ一文思っていないのだ。思ったことすらないのだ。時間などという敬老精神フィルターを通してヴェルヌを読んだことなど、ただの一度もない。「時間線が違う、もうひとつの世界」とさえ思っていない。ヴェルヌの小説の中でも特に素晴らしい数作品は、ガチンコで世界一面白いと思っている。かつて夢枕獏や椎名誠が提唱した文学賞チャンピオンベルト制に則って言うならば、エドガー・アラン・ポオを倒しチャンピオンになったばかりのアレクサンドル・デュマから死闘の末にピンフォールを奪い、腰に燦然と輝く世界文学無差別級ベルトを巻いたジュール・ヴェルヌがそれ以来は連勝街道まっしぐら、絶賛防衛記録更新中の現役チャンピオンだと思っているのである。キラ星の如き最強の挑戦者たち、ドイルや乱歩、アシモフやトールキンでさえヴェルヌからベルトを奪えずにローカル王座に甘んじてきたのだ(オレの脳内世界文学史)。
まあオレの脳内の極私的なヨタは置いとくとしても、ヴェルヌを本気のガチンコで読む対象ではないとする空気、これにオレは違和感を感じ、モヤモヤイライラを隠せないでいるのだ。そしてその違和感は、ヴェルヌ作品を原作とする数々の映像作品にも及ぶのであった。
この話続く。