天龍型ヒーローと小橋型ヒーローを分かつセックスの壁

これも随分前から思っていたことでわざわざ書くまでもない当たり前のことかもしれないのだが、昨夜つけたネーミングが気に入ったので書いておこう。ツッコミどころ満載の非常に乱暴な話になるが御容赦を。
フィクションにおけるヒーロー像は、極論すれば2種に分けられる。

天龍型ヒーローとは完成された大人の男。チャールズ・ブロンソンがこのタイプの代表格だと思うのだが、女を口説き、バンバンセックスし、人格が完成されているからセックスや暴力で精神は動揺せず、顔色も変えずに悪党を撃ち殺し、胸毛が濃い。親分肌で一匹狼、力だけで世間を渡り、寿司処しま田の経営も抜かりない大人の男・天龍さんのイメージだ。

小橋型ヒーローとは未完成の若い男。「ワンチャイ」asin:B00005HW8H・リンチェイが演じたウォン・フェイフォンがこのタイプの典型だ。女は口説けず、セックスせず、未完成ゆえに傷つき迷い成長する余地もある。これを、いまだ独身の身でサウナ特訓とかスイカチョップとかしている小橋さんのイメージにとりあえず当てはめる。

古来より欧米では天龍型を尊び、東洋では小橋型を愛するという傾向が伝統になっていたようにオレには思える。女性も口説けない男は一人前ではないとするのが西洋の文化で、だからヒーローには恋人、愛人、妻がいて当然となる。しかし東洋人であるオレの感覚では、確かにフィクションにおける天龍型ヒーローは見ていて気持ちいいのだが、感情移入を越えて観客とヒーローが一体化するあの境地にはほとんどなり得ない。オレにとって天龍型はセガールの圧勝パターンのような「面白い見もの」ではあるのだが、そこに感心はあっても感動はないのである。

一応書いておくのだが、だからといってオレは天龍型ヒーローを否定する気はなく、天龍型には天龍型の尊い役割があると思っている。昼間にテレビつけたらテレ東でやってる天龍型アクション映画は最高だよな。天龍型の美学を描くフィクションも数多くあるし、これはこれで素晴らしい文化の形であろうと思う。

欧米では不評だったという前述の小橋型ヒーロー、ウォン・フェイフォンは医術と武術に長けていたがため対外的に人格者を演じざるをえなかっただけで、実は内面的にはまるっきりの未熟者だ。彼の愛する女性は父の妹でありこれは近親相姦だ。フェイフォンは彼女への情愛を表現できない。時々ロザムンド・クァンの方が積極的になっても、覚悟を決められないフェイフォンはみっともなく逃げ回る。医術と武術の達人であるフェイフォン先生が、愛する女性に関しては中学生のような未熟さを垣間見せるとき、我々東洋人は彼を愛し慈しみ、自らがウォン・フェイフォンとなって悪を討つのである。

このイメージで説明できる映画は数多く、檜垣源之助と姿三四郎の対立構造なんかそのまんま天龍型と小橋型といえる。傑作「マトリックス」のネオは新世紀の小橋型ヒーローだったのに、続編でトリニティーとセックスして堕落した。ゴルゴ13は一貫して天龍であり続けた。言うまでもなくブルース・リージャッキー・チェンは小橋型。映画「スパイダーマン」のピーター・パーカーも小橋型だが、これは今後どうなるか判らぬ。座頭市はもともとは小橋型ヒーローだったが、数十年の遍歴ののちに温泉につかっているだけで樋口可南子が入ってくるという天龍型に変貌した。勝新に歴史ありである。ヴェトナム帰還兵ジョン・ランボーは続編において、愛した女性と心を通わせた途端に彼女を失う。これは小橋型ヒーローを堕落から救う古典的作劇テクニックで、よくできた手法だと思う。

要するにブロンソンでもゴルゴでもない連中が安易にセックスするな、身の程弁えてズボンのチャックは閉めとけと。そういう話です(そうなのか)。