高度に発達した科学は魔法と見分けがつかない

というのは確かスリランカ在住のアーサー・C・クラーク先生のお言葉だったと思う。出典は「幼年期の終わり」あたりか「2001年」か、よく憶えていない。

NHKスペシャル「世紀を越えて」より、「テクノロジー・あくなき挑戦 第一集 摩擦の壁を打ち破れ」を再見した。これは放映当時もワクワクしながら観た回で、後の「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」の原型とも思われる内容だ。トロイダルCVTという無段変速機の開発物語で、これを21年かけて実用化した日本精工の技術者が、頻出する困難な問題をひとつひとつ技術開発で切り抜けてゆくさまを描く。
1999年か2000年に観た当時は、ウヒョー世界中の自動車がトロイダルCVTに変わっちまうぜい、今すぐ日本精工の株を買い占めろ! 買いだ買いだ! などと興奮したものだったが、世の中そう単純なものではなく、現在でも普通の変速機を使った普通の自動車が普通に走っているばかり。どうも世界を塗り替えることは、簡単ではないようだ。
数年ぶりに観た印象は、以前とは違った。当時はそれこそ後の「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」のような一種の技術屋美談として観ていたのだが、今観てみるとなんともしれぬ不安を感じたのだ。
トロイダルCVTの技術は素晴らしい。潤滑油は摩擦をゼロにすると同時に、圧力を加えると瞬時に固体化して動力を伝えるという矛盾した性質を持つ、極めて特殊なものだ。高温と高圧に耐えうるこのような潤滑油を、分子構造から合成して作っている。円盤やローラーに使う金属は、これも新技術によって極限まで不純物を取り除いた最高純度の鉄を新たに開発した。
このように限界突破の連続によって実用化された夢の技術トロイダルCVTであるが、オレはこれを観ていて妙な不安を感じたのだ。
これはどうも「ブッ壊れた時には叩けば直る」というもんではなさそうなのだ。それ専用の様々な新技術開発の果てに実現したCVTがたとえばブッ壊れたとしたら、それはもう町の修理工あたりが直せるようなものではないように思えるのだ。手に負えないのではなかろうか。融通が利かなさそうなのだ。こういう不安のことはなんと言えばいいのか、「汎用性に欠ける」とでも言うのだろうか。
しかしちょっと待ってくれ。別にCVTがいかんわけではない。そもそも現代を生きる我々ちゃんは、壊れても自分では直せない、仕組みのよくわからぬ大量の機械に囲まれて生きているのではないか。オレはテレビが映る仕組みをよく知らないが、テレビを観ている。パソコンもよく判らぬまま使っている。自動車だってタイヤ交換ぐらいはなんとかできると思うが、メカ的なことはよく判ってない。飛行機なんか飛んでること自体が何かの間違いに思えてならないが、仕事で必要なら乗る。パプアにでもアラスカにでも飛んで行く。
いったい我々は、なんとあやふやなものに寄りかかり、命を預けて生きているのだろうか。そりゃあ、飛行機も自動車も立派な科学技術で動いているのだからあやふやではないんだろうと思う。あやふやなのは自分の知識と認識だ。クラーク先生の言葉通り、オレから見てこの世は魔法だらけだ。魔法の恩恵を受けて生きている。
日本映画の傑作「キングコング対ゴジラ」では、トランジスタラジオを聞いたファロ島の土人がびっくりして大喜びするくだりがあった。オレはあの土人だ。ラジオは魔法だ。しかしラジオを持ってきた高島忠夫藤木悠だって、ラジオの仕組みをきちんと理解していたようには見えなかったぜ。彼らだって、本質的には土人だったのだ。世界の99%は土人なのだ。地球は土人の星なのだ。うわー! うわあーっ!
という気分に今日なりました、という日記。