ハッスル・エイド2007 さいたまSA

今回の観戦で、自分にはハッスルを観る理由がもうほとんどないことに気がついた。ハッスルは作り手の規定する「観かた」にとりあえず沿って観るほかなく、観客の解釈の自由度が低すぎるのだ。
たとえば海の向こうのWWEでは、観客の自由度は高い。WWEにおいては、圧倒的なクオリティーとスーパースターたちの意識の高さが世界を支えている。観客は何を思ってもいい。何を思っても、WWEの重層的な世界はまったく揺るがない。積み重ねてきた歴史とクオリティーの高さに裏づけられたWWEの世界は広く、深く、豊かだ。
ハッスルのリングには、「このレスラーはこういうキャラクターですよ」と提示されたもの以上の何かは存在しない。登場人物はキャラクターを演じきる。演じきれない下手くそ(たとえば小川直也)は邪魔なだけだ。ハッスルはマンガの国であり、その世界を壊しかねない異分子は巧妙に排除される。
これはオレからするとひどく脆弱な、面白みに欠ける世界に思える。観客が作り手の意図を外れて自由な観かたをすれば、ハッスルはたやすく壊れてしまう。壊すのもなんだか申し訳ないから、観客はとりあえず「坂田いいやつ」だの「HGがんばれ」だのと、作り手の意図に一応乗って観ることにする。
これがオレには窮屈なのだ。ハッスルはディズニーランドに似ている。そこでは作り手の意図を完全に受け入れて身も心も委ねれば、ある程度の楽しさが保障される。「プロレスを再び大衆娯楽に」というハッスルのテーマからすれば、これはこれで正しい在りかたなのかもしれない。しかしプロレスが本当に大衆娯楽だった時代から、オレは「プロレスは大衆娯楽でもあり、同時にただの大衆娯楽ではありえない」と考えていたのだ。
すべてを台本という「神の手」にコントロールされたレスラーたちは、台本の出来さえよければある程度の地点まで引き上げてもらえる。しかしその沸点は、オレから見てあまりにも低い。ハッスルで傑出したキャラクターといえば高田総統だが、高田総統には「神の手」のコントロールをはみ出しているように見える瞬間がたくさんあって、それが解放感を生んでいるのだ。死んでしまった橋本真也も「神の手」から自由になる解放感をまとった男だった。
ハッスルのリングである程度の面白さを得るために「神の手」に従い、ハッスル外のリングでの魅力を大幅に失ってしまったレスラーは多い。プロレスの復興を旗印にしたハッスルには一方で焼畑農業の側面があり、プロレスの遺産ををただ浪費し消耗させてもいるのだ。そして、そうしてもいいと思える生産高(クオリティー)を、ハッスルが示しているとは思えないのだ。