アニメの中の「絵」

今日まで暇だったのでアホのように細田版「時をかける少女」をDVDで観ていたのだが、ちょい気になるところがあったのでその話を。
アニメーションというのは絵の集まりにすぎない。画面上を生き生きと動きまわる真琴ちゃんも、実はインクと絵の具でできている(マジかよ信じられねえ)。まあ最近はデジタル彩色らしいので、本当はほとんど電気でできてるということになる。
そして我々はそれを作りものの絵と知りつつも、あえて騙されて楽しんでいる。つまりアニメーションの観客は、浄瑠璃の芝居を楽しんだり能のお面に表情を見い出すような「見たて」を常に、当たり前のように行なっているわけだ。これは画面の彼方から機関車がやってきたり工場の出口から人がたくさん出てきたりした大昔から、徐々に人類が身につけてきた特殊能力のひとつだ。時代の先っちょを生きる我々現代人はいちいち意識せずに脳内変換を行ない、平然とアニメーションを観ることができる。ボーッとアニメ観ている間にも、我々の脳はけっこう高級なことをしているのである。
時をかける少女」の劇中、博物館に展示されている絵が物語上の重要なモチーフとして出てくる。

この「アニメーションにおいて絵画が絵画として登場する」というのは例えば宮崎駿の「魔女の宅急便」なんかでもあった事例だが、こういう時にいつもオレは妙な不安というか、違和感を覚えてしまう。
劇中、すてきな魔女おばさんが「この絵が描かれた時代はね…」などといい話をしてくれるのだが、そう言うてるアンタもそもそも絵やんけ、絵の具やんけという考えが一瞬オレの脳裏を掠めてしまうのだ。そしてこの映画は絵であって現実ではないという冷たい現実に、ちょっとテンションが落ちてしまうのである。
だいたいねえ、なるほど確かにその絵画はなかなか素晴らしいかもしれんけどね、オレに言わせりゃこの映画の美術を担当したヴェテラン・山本二三の背景画だって負けず劣らず素晴らしいもんなんですよ。その背景画の中に当たり前のように身を置いているキャラクターが、劇中の絵画について語っているのを聞くのは、観客としてなんとなく居心地が悪いんだよなあ。
現在のアニメーションの技術は凄まじく、ほとんど描けないものはないと言ってもいい。それでもアニメーションがいまだに苦手とするモチーフはいくつかあって、その最右翼がこの「絵」なんじゃないかと思う。
一方でたとえば「名探偵ホームズ」のモナリザや「フランダースの犬」のルーベンスにはたいして違和感を感じなかったので不思議だ。あれらは教科書に載るような「ザ・絵画」であって、映画の作り手の創作物ではないから違和感がなかったのかなあ。
下の画像はこの映画における山本二三の美術の一端。影と日なたの境界線が、ちゃんと肉眼で見たときのようにオレンジ色がかってる。すげえ。

時をかける少女 通常版 [DVD]

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