「ひぐらし」再評価

ひぐらしのなく頃に」は同人ノベルゲームなんだけど、倫理的にまっとうすぎる部分があって、オレはプレイしててそれがちょっと鬱陶しかった記憶がある。
※ ネタバレなので畳んでおきます
ひぐらし」にはゲーム内虚構における教訓がいくつかあって、その「ゲームのルール」が実は現実的にも正しく教育的メッセージになっている、つまり一種の「現実攻略法」となりえている、というトンチのきいた構造がある。
「一人で思いつめて行動するとバッドエンドになる」
「一度信じた友達を疑うとバッドエンドになる」
「憎悪に飲み込まれKOOLになるとバッドエンド」
など、など、など。
登場人物たちは、限りない試行錯誤と幾多のバッドエンドの果てにあると思われるハッピーエンド、理想的解決を求めて頑張る。
理想的解決への行動は、拍子抜けするほど常識的なものである。
「何か問題があったら一人で悩まずに、信ずる人々に相談すること」
「社会の中で許されたルールにのっとって最善を尽くすこと」
「他者に信念を伝える努力を妥協してはいけないこと」
「一人で解決できない問題には、仲間と結束してこれにあたること」
など、など、など。
オレ、実はこれが少し苦手だった。娯楽であるゲームにおいて、防犯啓蒙ビデオばりの教育的メッセージはあまりにもまっとうすぎると思った。早い話が作者・竜騎士07のアニキ面が透けて見えるような気がして、「説教くせえんだよう。うるせえんだよう。ほっといてくれよう」と感じたのだ。我ながらボンクラすぎて恥ずかしいのだが、「闇雲に鉈を振り回しても何も解決しない」なんてことはお前に言われんでも誰でもみんな判っておるわい、と思ったのは事実だ。
しかし先日の斧女父殺し事件に関連して「ひぐらし」など手当たり次第に槍玉にあげるマスコミの脊髄反射魔女狩り行為を目の当たりにし、その社会的害悪の大きさに慄然とすることで、オレのこの「ひぐらし」評価は完全にひっくり返った。竜騎士07の教育的メッセージには価値があった、あれを作品の中核に据えたのはやはり正しかったんだと直感したのだ。
オレの認識以上に、今の日本は暗黒世界だった。悪魔は一見良識的な顔をして「一応の下手人を立てる」人々の心に潜んでいる。ゲームやアニメの中以上に、福山雅治以上に、悪魔はそこに潜んでいる。昔そこんところをはっきり指摘した永井豪の漫画「デビルマン」を昨日の記事で引用したのも、直感的にそう感じたからである。そして、オレの認識などはるかに飛び越えて「ひぐらし」がちゃんと時代を掴んでいたこと、現代を撃てていたことが逆説的に証明されてしまった。
ひぐらし」を最後までプレイしたうえで今回のマスメディアのKOOLな醜態を目撃した若者たちは、かけがえのない経験をしたと思う。自分たちはこういう世の中で生きてゆくんだ、と認識できたのではないだろうか。自分なりの「ものの見かた」を発見してゆくことが成長ならば、今回の件は計り知れぬ教育効果があった筈だ。そして雛見沢よりもずっと過酷な世間でこれから生きてゆかねばならぬ少年少女たちに、竜騎士07の青臭くまっすぐなメッセージは、小さな勇気を与えてくれることだろう。