いじめの国だ

とりとめもないが、最近思うことなど。
日本は武士道の国だと無邪気に思いこんでいたが、どうもこれは違っていたのかもしれない。
今年も、力士やボクサーや芸能人や政治家や柔道最高!などのいろいろな人たちが国中から叩かれた。食品関係もいろいろあったな。これは別に何の裏づけも根拠もない感覚でしかないのだけれど、その叩き方がここ数年明らかに激しくヒステリックに、そして露骨になってきたような気がする。
これら「叩き」を行なう動機が義憤などという小綺麗な感情でないことは、実は誰でも知っていることだろう。嫌いだから叩く、あるいは叩きたいから嫌いになるだけだ。義憤なら心おきなく叩けるから、そう装っているだけにすぎない。ぼかーギフンなんて信じない。
なんのことはない、これはいじめだ。表向き義憤を装うところまで、子供のいじめそっくりだ。こんな国で、子供のいじめがなくなるわけがない。子供たちは大人になったら、メディアを駆使したより大規模でハイクォリティないじめが行なわれている社会に出てゆくのだ。今は教室で算数を習うが如く、いじめの実践で社会のルールを学んでいるのかもしれぬ。
武士道は、平時に労働しなくても食えてしまう武士たちが、では自分たちの存在意義とは何かと考えて生まれた、生き方の規範のようなものだ。現代においてもなお、日本人の精神には武士道が深く根を張っていて、その感情や行動の指針となっている…と、オレはけっこう本気でそう思っていた。
しかしよく考えれば、武士なんてごく少数だった筈だ。士農工商犬SFの中で圧倒的多数を占めていたのは農民で、武士道というファンタジーを生きた武士とは違い、彼らが生きた現実は地味に過酷だっただろう。村八分なんてものが生まれるほどに。
日本人の精神の核のひとつには、「いじめ」があるのかもしれない。そして、かく言うわたくしの中にもそれはある…正直言ってある…! そうでなければ、ヌルヌル事件のときにあれほどワクテカする筈がない。亀田一家のことが、こんなに面白いわけがない。そしてオレが日本人である以上、この種の感情が自分の中から消えることは、たぶんありそうにない。火事と喧嘩が江戸の華なら、炎上と祭りはネットの華、いじめと叩きが日本の華なのだ。
話がずれるが、いじめにおいてよく知りもしないものを気安く叩く人々の動物的脊髄反射を見ていると、オタク気質ってのは我ながらいいなと思うね。オタクは興味ある対象を知ろうとするし、知っていくと単純な憎悪や賛美は生まれにくく、複雑な愛憎がネチネチと渦巻いてくるものだ。叩くなら叩けるし、褒めるなら褒められる。オタクは愛も憎もどろどろと質が高いのだ。ちなみに興味ない対象のことはまったく知ろうともしないから、叩きようもない。
たとえばテレビで奇矯な振る舞いをした人が、本当に四六時中奇矯な人間であることは少ない。いじめは、人のツッコミやすい一面を拡大して暴走する。しかしよく知れば、そう単純なものではない場合がほとんどではないだろうか。騒音おばさんが本当に24時間うるさいとは、オレには思えない。