「秋山成勲」という底知れぬ闇

先日の「DREAM.5」で行なわれた秋山成勲vs柴田勝頼。戦前から柴田が勝つ目は薄いとは思っていたものの、出る前に負ける事考えるバカがいるかよ! 時は来た、それだけだ! という格言もあるので黙って観た。秋山は、当たり前のように柴田を下した。

オレが柴田に期待していたのは、勝つことではない。一瞬でもいいから、秋山のナマの顔を引き出して欲しかったのだ。

柔道時代は知らないが、総合デビュー後の秋山の試合はすべて見てきた。秋山という男、リングの上ではほとんど「裸の顔」を見せたことがない。秋山は、対戦相手を見ていない。眼中にない。いや勿論格闘技であるから、秋山だって相手のことは見ている。しかし、そういうことではないのだ。

秋山は、たとえば川尻達也五味隆典を見ていたようには対戦相手を見ない。秋山は「思い」をこめて相手を見ない。秋山にとって、対戦相手はただ「対戦相手」というノッペラボーにすぎない。秋山は相手に興味がない。自分にしか興味がない。いいローキックを決めると、秋山は力強く頷くことがある。あの頷きは、自分に対してのものだ。相手はどうでもいい。たとえばムエタイなんかでは、蹴られた選手が「効いてないよ」というアピールでニヤケ顔を見せることがある。秋山はそんなことさえしない。試合に勝っても、秋山は敗者を気にかけない。もともと相手に興味がない。つまり、秋山の試合には「対話」が存在しない。秋山の試合には、秋山の「モノローグ」しかない。秋山はひとりでやってきて、ひとりで試合をし、ひとりで帰ってゆく。これはなんというか、非常に陰惨なんだよな。

秋山が「対話」めいた感情の動きを見せたのは、ほとんど唯一、桜庭戦のみだったと思う。桜庭のアピールに焦り、衝き動かされるように鉄拳を叩きこんでいた秋山。あの瞬間、我々は確かに秋山のナマの顔を見た。裸の秋山を見た。

オレが見たいのは、秋山を「対話」に引きずり込むような試合なのだ。柴田くんは頑張ったと思うけど、全然対話させてもらえなかった。秋山に事実上勝利した三崎和雄でさえ、対話までは辿りつけなかった。三崎の陳腐な言葉なんか、秋山には一切届いていない。オレはあの試合で三崎が大嫌いになった。

秋山は、次の相手候補に田村潔司の名をあげた。そもそも秋山と闘いたいと言い出したのは田村なのに、秋山側から名前を出されるともう軟弱プオタであるオレなんか急速にお腹が痛くなって、田村くんはインタビューでちょっとリップサービスしただけなんです、秋山先輩マジ勘弁してください、という気分になる。これは秋山のプロレス狩り宣言であり、恫喝である。田村くんも船木さんもやられるよ。死屍累々だよ。

しかしその一方で、あの秋山からナマの顔を引き出してこそプロレスラーではないか、との思いもあるのだ。それはたぶん、格闘家の仕事ではない。今回名指しされた田村潔司は、かつて吉田秀彦から生臭い感情を引き出したことがある。あれは立派だった。試合はケチョンケチョンのコテンパンに負けたけど、あれは立派な仕事だった。小川直也にはできなかったことだ。でもなあ、秋山の「堅さ」は吉田の比じゃないからなあ。秋山の中にある膨大な闇を白日の下に晒すのは、たいへんな大仕事だ。それをやれそうなタマが、オレには思い当たらないのだ。