「禅という名の日本丸」 山田奨治

禅という名の日本丸

禅という名の日本丸

岩波文庫で「日本の弓術」という薄い本がありますね。昔からぼかーこの本が好きでしてね。
日本の弓術 (岩波文庫)

日本の弓術 (岩波文庫)

著者のオイゲン・ヘリゲルは欧米に日本文化を紹介した外人さんの一人で、弓道版・小泉八雲といった感じ。

「日本の弓術」は、大正末期の日本にやってきたドイツ人哲学者ヘリゲルが弓術を学ぶことで「禅」の世界に触れ、玄妙不可思議なる日本文化にビビってたじろいでアーびっくりした、という内容である。ズバリ言って、これ日本人にとっては相当に気持ちいい内容なのだ… そーなんですよ、日本の武道は奥が深いんですよ! 西洋の合理的精神では割り切れぬ世界があるんですよ! バンバンバーン!(机を叩く)

そんなふうに鼻息を荒くしてしまう日本男児であるところのオレ様ちゃん、実は弓道のことはろくに知らない。それはもう、ヘリゲルより知らないと言ってよい。だってオレは子供の頃すでにマクドナルドとか食ってた現代人。弓なんか触ったこともねえですから。

しかしこの「日本の弓術」と中島敦の短編「名人伝」によって、オレの中で弓術は巨大な神秘的イメージを纏うことになった。弓とは、正確な力学で当てるものではない。精神の集中によって当てるものである。「名人伝」なんか、道を極めた射手には弓すら不要と「不射の射」を謳っておるのだ。要するに宗教的な、超能力的な、神秘系合気道的なるものという認識である。オレは時々、故塩田剛三先生がブロック・レスナーやケイン・ヴェラスケス、GSPやアンデウソン・シウバを片っ端からチョイナチョイナと投げ飛ばしまくる想像をしてひとりニヤニヤする癖がある38歳なのだが、弓道の神秘性には同様の楽しさと気持ちよさがあるわけです。

「禅という名の日本丸」は、斯様なド素人の浮かれファンタジーに冷水をぶっかける。そもそもヘリゲルの言い分は正当なのか。師匠の難しい言葉を翻訳越しに正確に理解していたと言えるのか。現在の弓道の世界においてヘリゲルの著作の有効性はナンボのもんなのか。著者が調べりゃ、出てくる出てくる新たな疑惑。どんどん怪しくなっていくヘリゲル像。西洋社会で無責任に際限なくまつりあげられ拡大してゆく東洋の神秘、「禅」の概念。

話はここで終わらない。この本は龍安寺の石庭というもうひとつの「禅」の象徴を取り上げ、西洋からの評価という「反射」に対し、日本人が無意識に迎合する姿まで暴きだす。ヘリゲルが弓術を「禅」の世界と解釈し、西洋で「禅」がもて囃されると、日本人は「そうなんです実は日本は禅の国なんです」などと言い出すのである、禅の何たるかをまるで知らぬオレのようなド素人までもが! 言うまでもなく禅は日本文化の一部ではあっても全部ではない。恐るべきこのいいかげんさ、しかしこれこそが日本人なんだという気がしてならない。日本人は、バカにしてたものが外人さんにウケた途端に手のひらを返して持ちあげる習性がある。浮世絵、黒澤、小津、マンガ、アニメ、みんなそうだ。豊かな文化を生む一方で、ずいぶんケーハクなところのある民族なんである。

「禅という名の日本丸」はヘリゲルの「日本の弓術」と龍安寺の石庭、ふたつの奇妙なモチーフを皮切りに、非常に珍しいアングルから日本人の生の姿に肉薄している。これはなかなかに面白い本なのでありました。

中島敦 (ちくま日本文学 12)

中島敦 (ちくま日本文学 12)