「コクリコ坂から」を観た

天下のクソシネコン新宿バルト9で「コクリコ坂」を観た。小さめの7番スクリーンで前の方しか席が空いてなかったので、近年の記憶にないほど画面が視界いっぱいに広がっており、かなり疲れた。あの設計ダメだと思うぜ。

コクリコ坂から [Blu-ray]

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海ちゃんのような類稀なキャラクターを前にすると映画が「できてる」「できてない」なんてどれほどの意味があるんだ、という気分になってくる。(★3)
主人公の海ちゃんはあだ名が「メル」なんだが、劇中に何の説明もなく2つの呼び名が混在して観客を戸惑わせる。タイトルになっている「コクリコ坂」や「コクリコ荘」の説明もないので、タイトルの意味からして判らない。海ちゃんが掲げる信号旗の意味も全然説明されない。だからこの映画は、普通できてて当然の部分がまるでなっていないダメ映画だ。物語に最低限必要な説明がド下手なうえ、退屈な場面も多い。

しかし、この映画には「何か」があると感じる。物語や展開、テーマといった大きな部分ではない。そういう大きな部分には、総じて魅力を感じなかった。「何か」とは、海ちゃんの地味な所作、日常的な台詞など、ちょっとした描写に感じたものだ。

朝起きてから家事に勤しむ海ちゃんの、様式化された手順の美。

婆さんの部屋に入る際、ひと声かけてから襖を開くと正座している海ちゃんの、簡素で美しい姿。海を眺める婆さんの正座も、実にサマになっている。

魔窟と化した部室棟での胎内巡りの後、目的の部屋の前に来て「あった。」とつぶやく台詞の飾らぬ素っ気無さ、潔い素朴さ。

白馬の王子さまが颯爽と現れるのは絶体絶命のピンチではなく、カレーの豚肉を買い足しに出かけるとき。そのちょっとだけうれしい感じ。

寿司桶を3つ重ねて運びながら「お寿司が来ましたよ!」。この場面、なぜか美しいと感じた。あとで気づいたが、自分が寿司を運んであげてるのに海ちゃんは「お寿司が来ましたよ」と寿司を主語にしてるんですね。実に昔の日本人的な謙虚さが表れた、美しい言葉遣いなのです。

停車場での、気恥ずかしくなるようなまっすぐな言葉。カメラが少年の一人称になっており、観客は彼女のまっすぐさをそのまま受け止めるしかない。

他にもいろいろ挙げていけばキリがないが、マー要するにねえ、海ちゃんがすごくいい子なんですよ! もう、ずっと見ていたくなるような女の子なんですよ。凛として前を向き、なんでも手際よくちゃんとこなすんだけど、だから強い女性というわけでもなくて、実にきちんと傷つく敏感さ、繊細さを持っている。映画は後半に進むほどどんどんグダグダになるんだけど、海ちゃんだけはブレない。『コクリコ坂から』は映画というパッケージで考えると全然できてないんだけど観てよかったと思うし、海ちゃんのような類稀なキャラクターを前にすると映画が「できてる」「できてない」なんてどれほどの意味があるんだ、という気分になってくる。

映画の時代設定は1963年だそうで、誰にでも判りやすく言うならば「キングコング対ゴジラ」と「モスラ対ゴジラ」の間の年だ。この高度成長時代に宮崎駿が込めた個人的な思いとか正直言って鬱陶しいからオレはどうでもいいんだが、海ちゃんのような女の子が存在し得た時代、と考えるならば、そこにもなんぼかの意味はあるんだろうと思う。