前回の記事を書いてすぐ、アシモフの名作「鋼鉄都市」が映画化されるというニュースを聞いた。期待より不安のほうがずっと大きいニュースだ。しかし観る前からダメと決めつけるのもよくないと思い、これもどうせダメなんだろうと決めつけていた「アイ、ロボット」を観てみた。これはアシモフの短編連作集「我はロボット」を原案にした、2004年の映画である。結果は… 全然ダメだった。
恥ずべき土人映画。こんな映画を作る連中は、確かに機械に管理されたほうがマシかも知れぬ。(★2)
アイザック・アシモフの小説が映画になりにくいのは自明のこと。映画はなにより画が動くこと、つまりアクションによって物語を推進させ、観客のエモーションを煽ることが尊ばれる芸術だ。それはジャンルの特性といってもいい。アシモフの小説にいわゆるドカンボカンの「アクション」は一切存在しない。「ファウンデーション」におけるハーディン市長は「暴力は無能力者の最後の避難所である」との警句を残した。アシモフにおいて、アクションの主体は人間でもロボットでもなく「論理」である。ロジックが激突し火花を散らし、我々の固定概念を、時には道徳を揺さぶる。斯様な文学的快感はちょっと高級すぎて、映像化するのが困難だ。「じゃあ、映画らしくアクション満載でいこう」というのがこの映画の態度であり、オレはそれを支持しない。そんな映画はたくさんあるし、そんな映画で出来のいいものも少なくない。しかしアシモフの名をクレジットに冠する以上、暴力と暴力の激突、そして一方の暴力の勝利によって何かが解決するという展開は、少なくともオレの感覚では許されないものだ。ゆえにアシモフの映画化はアクション皆無の禁欲的な「対話映画」としてしか成功し得ない。
VIKIと呼ばれる「おふくろさん」が画策するロボットの反乱、その描写の貧しさたるや、呆れかえって笑ってしまった。マザーコンピュータに操られた、ナチの親衛隊もどきのロボットたち。ズバリ言って、制作者にはロボットと人間の区別がついていない。ロボットに人間の影を勝手に投影し、勝手に恐怖しているだけだ。それはアシモフが「フランケンシュタイン・コンプレックス」と呼んだ非理性的な態度、要するに土人の迷信だ。
アシモフの描いたスーザン・キャルヴィン博士はあらゆる問題をロジックによってのみ解決する、すぐれて知的な、理性的な女性だった。この映画に登場するキャルヴィン博士はシガニー・ウィーバーのパチもんみたいな姉ちゃんで最悪だ。我が物顔でオレオレ猿芝居を見せつけるウィル・スミスも不愉快でしかない。
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