3.11のあとの年末の心境

年末なのにしみったれた文章で申し訳ないが、この記事はid:Dersu:20110322 の続きで、震災後の世の中のお話。

以前からわたくしは火山の噴火や地すべりなどの災害ニュースを見るたび、「あの人たちはどうしてあんなに危なそうな場所に住むんだろう?」と思っていた。活火山のふもとや崖っぷちに建つ家など、あなた災害に遭いたいの? と訊きたくなるような危なっかしい土地にも人々は住み、平気で生活を営んでいる。しかしまあ、皆さんいい大人のようだし、いつか来る「かもしれない」災害よりもなにやら重要な事情があってのことか、と想像して済ませていた。

2010年の11月に、オレは北海道でクマと遭遇した(id:Dersu:20101127)。これは自分にとっては最大級の事件だった。遭遇そのものもショックだったが、直後にオレを驚かせたのは、人間を捕食できる野獣との「共生」を静かに受け入れている北海道の人々の態度だった。オレは地元の人に「クマが出ました」と、「ゴジラが出たぞ」「原爆が落ちたぞ」に等しい、この世の終わりだトーンで報告したのだが、地元の人は「あらーこんな市街まで来ちゃったのか。ハンターに追い立ててもらわにゃ」と至って日常的、季節の風物詩的、カジュアルセックス的な態度だったのだ。クマと出っ喰わして襲われて死ぬなんて冗談じゃねえとオレは思ったんだけど、地元の人にとってそれは「あり得る不幸」に過ぎなかった。ま、実際に皆さんそこまで悟りきってるわけでもないのだろうが、なにしろパニック状態だったオレにはそう見えた。

3.11の東日本大震災は、よその国からどう見えたのだろうか。「日本人はどうしてあんなチンケな列島にしがみついているんだ? 地震に火山に津波に台風、災害だらけの土地じゃないか」 と思うガイジンさんも多かったのではないだろうか。いっそミスターイノキみたいに、ブラジルに移民したらどうですかお客さん。日本人からすれば、おいふざけんなよとなる。日本は魚がうまいんや。先祖代々住んできた歴史があるんや。かつて災害のニュースを見てオレが悪気もなく思ってきたことが、どれだけ不遜で罰当たりなことだったか、恥ずかしいんだけどもうじき四十郎になろうかという今年になって気がついた次第だ。

天災は、これはもう仕方がない。仕方がないじゃ済まない重さは受け入れざるをえなくても、最終的にはやっぱり仕方がない。鬼か仏か悪魔か神かは判らぬが、人間にはどうしようもない大きな力がやらかすことだ。亡くなられた方々やご遺族に「仕方なかったですね」とは口が裂けても言えないけれど、ああいう大震災の可能性は関東にも九州にも、日本全国どこにでもあった。北海道の人々がクマを受け入れているように、日本人全員が地震が来て死ぬかもしれない明日を受け入れて、それでも生きていくしかない。そういう世界なんだから、仕方がない。蟻塚を壊されても、蟻は挫けずに塚を作りなおす。人間もアリさんを見習って頑張るしかない。

問題は人災、原子力発電所炉心溶融である。「激痛を伴おうが、何十年かかろうが、原発を減らしていく以外に理性ある人類の道はないように思えるのだが」と3月に書いた。原発を段階的に減らして、最終的にはゼロにするしかないだろうとオレは思っている。しかし現在、そうはなっていない。かと言って、原発続行するぜ!ともなっていない。どっちつかずの雰囲気、このはっきりしない玉虫色のままナアナアで現状維持していきたいという、いかにも日本人らしい空気が列島を覆っている。これ、どうかと思うのですよ。もう2011年は終わろうとしている。いいかげん、やめるでも続けるでもどっちかの指針を誰かが示さねばならないのではないか。

政治や行政が取り扱うスパンなんて、せいぜい数年先の社会まで。企業が目くじら立てて頑張るのは、たかだか来期の決算まで。競馬キチガイが予想するのは来週のレース。相場師が目を離さないのはここ数時間の株価の上下。なんとマー、我々はチンケな時間軸をあくせく生きていることだろう。

原発の問題は、全然違う。100年先から数万年先に至る、未来への判断だ。日本人、ひいては地球人としての判断だ。「だからこそ、軽々には決められないのだ」というのは、真剣に考えたやつだけが吐いてもいい台詞である。ところが今現在、政治も行政も企業も、ちっとも考えてるようには見えない。どうせお前らは次の選挙、来年の予算、来期の決算のことしか考えてねえんだろ。おい、原発メルトダウンしてんだよ。昔テレビでチェルノブイリ見て「かわいそうやなー」言うてたわしらが、今かわいそうなことになってんのや。国民がたくさん死んで国土の一部を失って溶けた原発という爆弾抱えて、ちょっとした戦争に負けた以上のダメージ喰らっとんのや。

お偉いさんは、増税だの就職難だの、何かしら対策できそうな「おなじみの問題」については意見もあるし扱い方も決められる。ところが核エネルギーをどうするみたいな人類史的な問題には、まるっきりアテにならない。政治家がバカなのは、選んだ我々がバカなせいだと思って心中するしかない。オレはZ級SF映画「ミスト」を思い出すのだ(id:Dersu:20080511#p2)。知ってますか、デカい虫とか出てくる、すげえおっかない映画です。あの映画では、前例のないヤバい事態に陥った人々が見せる様々なリアクションが描かれた。いかにもリアリティがあったのが、「問題そのものを直視することを避け、周辺の小さな問題解決にあたってとりあえずの安心を得る人々」や、「今まで社会の中で有効だった問題解決法を信じ、それを前例のない事態に当てはめようとして失敗する人々」の姿だ。連中がたてこもるスーパーマーケットは明らかにアメリカ社会の縮図として描かれてるんだけど、今、オレには連中が自分たちに思える。あのスーパーマーケットが、現代の日本に見える。「ミスト」で描かれたように、よりよい選択が必ずしもよりよい結果を生むとは限らない。それでも我々は、絶望しながら少しでもマシと信じる選択をするしかない。

SFをはじめとするフィクションだけが、「核戦争後の世界」や「原発事故後の世界」、その他もろもろくだらない無数の「あるかもしれないケース」を時にクソ真面目に、時にふざけながら考えてきたのだ。お偉いさんの大人たちは、そんなことはビタ一文考えてこなかった。大人がそんなマンガを真顔で読めるかよ、ツヨシしっかりしなさいと逆に説教かます勢いだった。現実が悪夢に侵食されたあの3.11より以前には、それが大人らしい立派な態度とされていたんだ。今思えば、あれはなんと牧歌的な時代だったんだろう。しかしそう言いながら、今のオレだって充分にボケている。判っております。こないだ池袋にけいおんの映画観に行って、あずにゃんあずにゃん言うてるだけのボンクラだ。そんなオレでさえ、上に書いたような不安を感じる年の瀬なのである。オレは名もない逆「炭坑のカナリヤ」の一羽として、呑気なボンクラにとっても2011年の終わりは不安な年越しだったことを、ここに記しておきたい。せっかくのインターネット時代、市井のボンクラが時代の証言を残したっていいわけだ。歴史的な価値は特にない。

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