プロレスは拍手に応えなくてもええんちゃうのというヨタ話

プロレス見てると、場内に拍手が起こる現象があるでしょう。以前からオレは、あれに微かな引っかかりを感じていた。拍手といってもリングアナが選手名をコールする時や、選手が観客へ何らかのアピールをする時のは気にならないし、時には自分が拍手することもある。引っかかりを感じるのは、試合中の技や攻防に起きる拍手だ。

非常によくあるやつとして、「クルクルシュタ拍手」*1というのがある。試合序盤に2人のレスラーが巻き投げ〜巻き投げ〜向い合ってシュタ、と構える。すると、拍手が起こる。定石のムーブが流麗に披露され、一段落したところで起こる拍手だ。めまぐるしいロープワークからの向い合ってシュタ拍手、というのもよくある。これらの拍手は昔からジュニアヘビーの試合にはよくあって、ルチャ文化と言いましょうか、多分に大衆芸能的な温かみのある空気を生む。大衆芸能、わたくしも嫌いじゃありません。だから基本的にはオレもニコニコして拍手しないでもない、のだけど、そんな時ふと冷静になって「大衆…芸能…?」とザワザワする自分もまた同時に存在するのであった。本来わたくしはプロレスを、肉弾相打つ闘い、格闘芸術にしてキング・オブ・スポーツを観戦しに来たのではなかったか… とかなんとか。いや、そりゃあオレだって野暮天じゃありません。かつてのファミリー軍団対悪役商会や、みちのくのルーチャ、荒川真のひょうきんプロレスなどにおいての「クルクルシュタ」的な定石ムーブ、それに対する拍手に疑問を感じたことはない。むしろ大喜びだ。ただ時と場合によっては、ちょっとザワッとすることはあった。正直言ってあった。

さらに90年代の三銃士プロレスあたりで、何かしらレスラーの得意技か大技が出た時に「パチパチパチ…」と拍手が起こるのを、土曜夕方4時のワールドプロレスリング放送でオレはたびたび確認した。オレは、これが好きになれなかったのだ。要は「見たかったものを見たぞ」という喜びの拍手なんだけど、それをわざわざ意思表示することによって、まるで「我々観客の見たいものを要望通りに見せろ」とレスラーを教育しているようにも思え、それにレスラーが応えようとすることに、どこかしら観客の傲慢さを感じて苛立っていた。心ある昭和枯れすすきのプオタ連中の間では「ファミコン・プロレス」などという苦言が囁かれていた。もともとプロレスは観客を翻弄して操るものだったのに、今は観客がその手にコントローラを握ったかの如くプロレスを操っている。これはどうも、実にうまくないぞ…などと感じていたのだ。同時期には観客が馳浩ジャイアント・スイングの回数を数えるという実に気持ち悪い流行もあり、その「一見盛り上がっているようで実は空虚」な雰囲気自体が大嫌いだった。

この頃から、プロレスラーたちは「空白の時間」を恐れているようにオレには見えた。多彩な技で時間を埋め尽くすのが「高度なプロレス」なんだと言われはじめた時期だった。もしかしたら、それは長州力のハイスパットあたりからすでに始まっていたのかもしれない。スイングしなけりゃ意味ないね症候群、スイング病である。前座の若手が平気で大技を使うようになったのも、この頃だったように思う。しかしもっと昔、オレがガキの頃は、華のない木村健吾が腕とったり足とったり何やってんだかもちゃもちゃと地味な攻防やってるうちに10分経過、なんてことは普通にあったのだ。キラー・カーンが外人と押し合いへし合いしてるだけで両者リングアウト、なんてことも普通にあったのだ。観客はそれを、別段盛り上がることもなく、黙ってじっと見ていたのである。

これは個人的な好き嫌いなんだけど、オレは「盛り上がる」ことを至上の命題とするあらゆるイベントが嫌いだった。それはひどく貧しい…というとアレなんだけど、あんまり豊かではない世界、自由度の低い世界に思えてならないのだ。盛り上がってもいいんです。盛り上がらなくてもいいんですよ。小はカラオケから大はコンサートだサッカーだ、とりあえずワーワー盛り上がればイケてる楽しい渋谷でヒャッホーなんてお前らは馬鹿か、新歓コンパでイッキイッキかとんねるずか、今すぐ死ね死ね死んでしまえと内心思っていた。オレは若い頃、能が好きでよく観ていたんだけど、あのねえ、能って凄えんだぜ。始まったら1時間半とか身じろぎもせず、固唾を呑んで見つめてるだけ。終わったら呆然として黙って帰る。それはつまらなかったわけじゃなくて、むしろ能は死ぬほど面白いんだけど、幽幻荘厳なる能の世界が頭の中で広がってパンパンになって、もはや何も言うことはないのだ。その体験のかけがえのなさ、満足感たるや凄まじいものがある。イベントとは「出来事」であり、そこには様々な豊かさと可能性があってしかるべきだ。それが何だ何だカン高い声の馳がジャイアント・スイングぐるぐる回したらみんなして声揃えていーち、にーい、さーんってお前ら田舎もんのジュリアナ東京かバブルかトレンディーかコラ死ね死ね死んでしまえ否死ぬ以上の苦しみを味わえと内心思っておりました。あの頃ぼくも若かった。

拍手とその延長線上にある空虚な盛り上がりは、確実に近年のプロレスに影響を与えてきたと思う。暗黒時代以降の新日本プロレスは、そんな観客の期待に期待通り応え続け、迎合し続けて作り上げた世界だ。棚橋弘至オカダ・カズチカのプロレスの快感は、おっさんのオレにはもうよく判らない。オカダのドロップキックが実に象徴的で、あれは打点こそ高く美しいもののチョンと蹴るルチャのドロップキックなんだよな。美しい技を見て満足、という向きにはあれもいいのだろう。しかしオレは、例えば川崎市体育館豊田真奈美尾崎魔弓を半失神させた殺しのドロップキックを今でも鮮明に覚えてるんだよな。相手も客もねじ伏せるレスラーの強さ怖さ、主導権を奪い合うゴリゴリの鍔迫り合いを見るスリルを、少なからず味わってきたんだ。棚橋やオカダが、実にうまくそれらしいプロレスをこなしていることは判る。あれをやるためにたいへんな努力をしてるのも想像できる。しかし好勝負を演ずるにあたってさえ、彼らが演ずるステージの低さは気にかかるのだ。オカダなんか明白なサル芝居だろ、なんでみんな黙ってんだよ! そして「強そう」も「怖そう」も失って、ひたすらスイングして「毎回必ず」盛り上がるプロレスに、いいかげん飽いてきてんだというのも、おっさんのひとつの本音ではあるんだよな。客の言うことなんか聞かないフリして、もっと偉そうにしててくれと、わりと本気で思う。まあちょっと以前を思えば贅沢な話で、観客にもプロレスにも文句吐いちゃって申し訳ないとは思ってます。

ちなみに、今の新日本プロレスは前途洋々に見えるかもしれんが揺り戻しは近々来まっせ。それはもう、確実に来る。今のところは柴田や桜庭、船木や諏訪魔らの話の通じない物分かりの悪い人たちがもたらす破綻と自由が、いつか新日本を救うのかなあ、なんて甘い想像をしております。

*1:かつて友人がこれに関する凄まじい論考をはてなダイアリーで書いてたんだけど、もう消されちゃった。あれもう一度読みたい