「Chronicle」 AKIRAごっこでイヤボーン

映画マニアックスの友人からブルーレイ借りて「Chronicle」を観た。海外版だけど、とっくに日本語字幕も日本語吹替も入ってるのね。ブルーレイいけてんなあ。超能力を手にした高校生たちのお話です。

AKIRA」チルドレンとしては立派な出来映えだったが、フェイクドキュメンタリーにする意図は汲めない。これ誰が編集したんだ? (★3)
はい、みんな大好き超能力映画ですよ。「大きな力の存在によって、すでにある不穏な状況が暴走し拡大する」という鉄板面白いに決まってる、いつものお話です。「クロニクル」は細部がとても魅力的だ。超能力を実演しようとしてボールをぶつけるボケを何度も重ねたり、はじめて宙に浮いてみせた友人を見て爆笑したり。ああいうのいいよな。

超能力が存在しない現実では、この映画のアンドリューは家庭内不和を抱えたいじめられっ子のままで終わりだ。「キャリー」のシシー・スペイセクは母親に虐待され学校でいじめられる不幸少女で終わり。「AKIRA」の鉄雄はシャバゾウのまま。みんな自分の不幸を我慢して、どうにか生きていたのだ。

仕方ないと半ば諦めていた不幸を遥かに飛びこえる力を不意に手に入れることで、彼らは自分の中に潜む衝動に気づいてゆく。怒りは暴力となって暴走し、結果悲劇を生む。

「オレは頂点の捕食者だ!」なんてDIOみたいで切ない台詞だ。人間をやめてしまったアンドリューは、マットの人間賛歌の前に敗れ去るしかない。超能力映画には、暴走した人物を赦し、その悲劇を背負って未来へ進んでゆく登場人物が必ず登場する。そうしなくては倫理的に気分よく終われないのである。鉄雄に対する金田、キャリーに対するスー、そしてアンドリューに対するマット。彼らが生きてゆく未来に心を馳せることで、我々は倫理的に安心できるのだ、ついさっきまで超能力のハチャメチャをごっつい楽しんでいたくせに。ま、これは娯楽映画の教科書的構造です。

この映画を観て思い出したのは、実は上記の如き超能力暴走映画ではなく、1982年の怪作「超能力学園Z」だった。超能力が罪のないスケベなイタズラとして使われる、おおらかな映画だ。キリストさんやお釈迦さまなら、「クロニクルより超能力学園Zの方がいい映画!」と口を揃えるに違いない。またテレビでやんねえかな。