「機械男」 マックス・バリー

機械男

機械男

なんとなく気になって、手を出してみたSF小説

民間企業のギーク研究者が、事故で片足を失う。義足の機能に到底満足できなかった彼は生身の足を超える能力を持つ「よりよい足」を開発し、装着。そのまま研究にのめり込み、体組織をひとつ、またひとつと「すぐれた機械」に変えてゆくのであった。

この小説が明らかに絶大な影響を受けている映画「ロボコップ」では、人間マーフィは死を通過してロボコップになった。映画「攻殻機動隊」では、冒頭からすでに少佐は義体化されている。本作の面白みは、主人公自らその体を少しずつ機械化してゆくエスカレートの過程にある。義足は技術的に時代遅れで、不完全だ。そもそも生身の足だって不完全だ。技術を集約すれば、人間以上の足ができる筈だ。斯様な思考がいかにもギークらしく、読んでて楽しい。技術的に可能なことは即やっちまう感じも楽しい。オレは涙を流さない、ダラッダー。ロボットだからマシンだから。

後半にはエンタメ小説らしく荒事が展開され、それらしいオチに続くのであるが、後半はあんまり気に入らない。恋人とのアレコレとか軍需産業の思惑とかどうでもええねん、ギークギークらしく何でもかんでもすごい科学で解決しろよ、ご自慢の「魔法のようで革新的なデバイス」でなんとかせんかいと思わざるをえない。この小説はダーレン・アロノフスキー監督で映画化の話が進んでいるらしい。銀幕ではギークらしくラム・ジャムを炸裂させてほしいものである。

印象に残った段落を引用。

ぼくはいらだった。店に行けば300ドルでゲーム機が買え、戦場で戦車を操縦する感覚をジャイロスコープ内臓のデュアルフィードバック・レジスタンス・コントローラーが振動と反発力により18通りに模倣してくれる。なのに、腕をなくした人に触覚を取り戻させることには誰も関心を持たない。腕のない人には1970年代に造られた鉤爪があるじゃないか。それでいいだろう、というわけだ。技術はあっても、間違った場所にある。非効率と同じくらいぼくをいらだたせるのは、倫理ではない。資源の不適切な配分だ。ぼくだって、企業が1億ドルを注ぎこむのはゲーム機のコントローラーであって、人に感覚を取り戻させてくれる義肢なんかでないことぐらいわかる。でも、そういう“関心の欠如”を読むたびに、誰かを蹴飛ばしたくなった。

さてここ1年以内の話であるが、わたくしわけあって義肢装具の職人さんと話す機会が幾度かあったのである。それまで全然知らず興味もなかった義肢の世界、職人さんの話には蒙を啓かれることばかりであった。

下腿切断だの大腿切断だのの足の「断面」と義足を繋ぐ部分は、硬い素材(FRPだったりカーボンファイバーだったり)が足をくるむコップのような形になっている。このコップに、足の残された部分、太腿だったり脛だったりを差しこむわけだ。全体重を受け止めるこの部分はソケットと呼ばれ、足の形にピッタリ合ってなければならないので作るのが難しい。うまく合っていれば、広い接触面で満遍なく体重の負荷を支えられる。合ってないとごく狭い接触面に負荷が集中し、痛くて歩けないというわけだ。

 上部が「ソケット」で、ここに足を差しこむ

患者の足の断面からとった石膏の「型」をもとにしてこのソケットを作るわけだが、義肢作りの名人は職人的な、オレから見るとほとんど動物的な勘でズバズバ整形してゆく。そしてソケットは本人の足と幾度か仮組みされ、ご当人との問診を経て細かな修正が何度も何度も施されてゆく。そもそもの切断箇所が人によって違ううえ、キツメがいいとかユルメがいいとか人それぞれにお好みもあるため、万人向けの正解例といったもののない、手探りの世界なんである。さらに、切断から数年経てば筋肉が落ち、足の形も変わってゆく。だからせっかくできたお高い義足も、数年おきに作りなおさなきゃならんそうだ。

そういった現実を知ると、小説「機械男」のすごい科学で守ります的な楽観主義、現在においてはまだまだ絵空事と言えるだろう。しかし科学技術の進歩は早い。上記引用からの妄想だが、たとえばもし「Call of Duty」や「Grand Theft Auto」の開発費を、いやいやそれよりもクッソ馬鹿げた愚行の墓標である高速増殖炉もんじゅ福島第一原発の維持のために日本政府が毎年毎年ドブに捨ててる巨額の税金、あれをそっくり義肢の開発に充てることがもしできたなら、開発に世界トップクラスのギークハッカーNASAやHONDA、軍需産業の技術者たちが総動員されたなら、いったいどんなスーパー義足が、スーパー義体ができるだろうかと想像してみると、ま、正直言って僕ちゃんレベルの凡人には想像もつかないのだけど、そんなことにならない理由なら想像がつく。儲からないからだよな。世間の水は冷たいよ。