観たぜ「かぐや姫の物語」

高畑勲の新作「かぐや姫の物語」、正直言ってあんまりテンション上がってなかったのだけど、観てビックリ聞いて仰天の大傑作でしたよ。皆さん劇場で観たほうがいいです。大丈夫、いくらヒットしても赤字です。でも、時間さえかければ回収できなくもないと思う。そう思うほどの、これはひとつの国民的な古典、スタンダード、定番、教科書、マスターピース、唐揚げ定食となり得る作品だった。以下、CinemaScapeに投稿した感想。ネタバレあるので、未見の方々は決して読んではなりませぬぞ。

竹取物語」の映像化を夢見ていた、亡き円谷英二に観せてあげたい。 (★5)
よくよく考えれば、「竹取物語」なんて高畑勲の必勝パターンそのものだ。評価の定まった古典を綿密なリサーチと考証で甦らせて、なおかつ現代的な解釈を加えて映像化するのは彼のお家芸である。「アルプスの少女ハイジ」、「母をたずねて三千里」、「赤毛のアン」、そして「セロ弾きのゴーシュ」はそのようにして作られた。一方で現代劇をやらせると、やれOLやめて農家の嫁になれだの、愚民はいしいひさいちの4コマでも読んでろだの、タヌキ労働争議階級闘争だの、柳川に住むならドブさらいをやらなきゃ殺すだの、途端にキナ臭い説教が噴出してくる「思想の人」でもある。ちなみに「火垂るの墓」はこの両極端の真ん中でどうにかバランスをとってみせた稀有な作品で、「じゃりン子チエ」は現代劇であるにもかかわらず名作古典的なアプローチが成功した、やっぱり稀有な作品であったと思うのだ。

日本最古の物語と言われる「竹取物語」は奈良時代平安時代初期に成立したとされる。奈良時代だとすると十二単などの美しい平安装束がまだないため、姫の衣装などはグッと地味なビジュアルになってしまうのだけど、そのへんは高畑勲は百も承知、平安時代の絢爛たる都を舞台とすることにためらいはなかったと見える。

誰でも知ってるけどよくよく考えるとヘンテコな話である「竹取物語」を、高畑勲は時に現実的な、時にアクロバティックな解釈で新たな物語として仕立て直している。この解釈がまず大いに見ものとなっており、ははあなるほど、そういうことであるなら判る話だなあと、いちいち納得させられる。

一例をあげてみる。たとえば原典では、求婚に来た5人の貴族に対してかぐや姫は一方的に「ではこれこれの宝を持ってきてください」と条件を出す。蓬莱の玉の枝だの龍の首の珠だの、いきなりずいぶんな博識ぶりを発揮するかぐや姫。普通に考えればこれ結婚したくないための無理難題であり、一種のはかりごとである。この計略は功を奏し、誰も成功できない。ゆえに姫の思惑通りとなったのでした、チャンチャン。

高畑勲の解釈ではこうなる。結婚したくないのは同じ。しかし5人の貴族は求婚にあたって、それぞれが姫を世にも珍しき宝物に喩え、姫の美しさを讃えるのである。それを聞いた姫は、苦しまぎれに「ではご自分がおっしゃった、その宝物を持ってきてください」と答え、とりあえずの窮地を脱するのだ。そして貴族が宝を持ってくるたび、姫は心の底から怯える。それが本物であれば、否応なしに結婚しなければならないからだ。宝が偽物と判明した時、姫は重圧から解放されて笑顔を見せる。これはですね、原典と似たような顛末なんだけど印象が全然違います。原典の高飛車な女より、全然萌える。姫かわいい。超かわいい。結婚して呉れ。お宝は持ってない。

このような新解釈は数えきれぬほどあって、全編すみずみにわたって繰り広げられている。あのー、「竹取物語」を研究してる国文学者の方々なんか、この映画を観てどう思ったんでしょうね。学者さんが貶そうが褒めようが、この高畑解釈による「かぐや姫の物語」が今後「竹取物語」のスタンダードのひとつとして認識されてゆくのは間違いないと思うのだ。そのへんも興味の尽きないところであります。ちなみにボカー星新一の「竹取物語」なんか大好きでしたね。

ま、それはそれとして。この映画では、月人たる姫が色彩乱れる混沌たる地上に憧れたことが罪とされ、穢れたる地上に降ろされて生きることがその罰とされている。なにしろ月の世界じゃそういうことになっている。しかし映画で描かれるのはその反対で、生命溢れる地上の混沌の素晴らしさが姫を魅了する。姫は山で暮らし野を愛し、活き活きとして健やかだ。一転して、都に移り住んでからの暮らしは苦痛でしかない。おなじみ「アルプスの少女ハイジ」の変奏である。なにしろロッテンマイヤーさんまで出てくる。ハイジはおんじやペーターの待つアルムの山に帰ることができたけど、かぐや姫はお山に戻れない。戻っても翁も媼もおらず、家には他人が住んでいる。幼なじみの木地師の一族も去ってしまった。姫はこの喪失、悲嘆のうちに人生の大半を過ごしてしまう。都で楽しいことも、なくはない。時には自分を誤魔化せたこともある。しかし彼女が地上の喜びを味わい尽くし、生を全うするのを待たずして、残酷にも月からの迎えはやってくる。だからまあ、やっぱりこれ、悲劇です。悲劇カンゲキです。オレは「竹取物語」がこれほど胸をしめつける悲劇だとは、思っていなかった。考えもしなかった。美しく幻想的で、ちょっと怖いお話だとは思っていたのだけれど。

アニメーション技術は凄まじい。とりわけ前半のお山での暮らし、赤子の仕草、成長をじっくり見せるあたりは驚異的だ。情報の引き算による特殊な画面構成は、当然「ホーホケキョとなりの山田くん」からの技術的蓄積があるのだろうが、「山田くん」のしょうもなさに比べて「かぐや姫」の「こうでなくてはならぬ」ビジュアルの必然性はケタ違いで、お前これができるんだったらいったい山田くんは何だったんだよと胸ぐらを掴みたくなる気分にも襲われる。影の表現にはまだ再考の余地があるとは思うものの、動く映像そのものの快楽の大きさはたいへんなものだ。かぐや姫は最高に美しい。翁や媼、捨丸兄ちゃん、ロッテンマイヤーさんやパタリロ、エロいミカドなどのキャラクターもよく立っており秀逸だ。オレが特に気に入ったのは5人の貴族で、それぞれに個性的な芝居どころが用意されておりたいへん楽しい。これほどきちんとしたエンターテインメントが作れるんだったらお前いったい山田くんは何だったんだよと蹴り飛ばしたくなる気分にも襲われる。まあ、こんなもん海外の映画祭なんか持ってったら軽く総ナメでしょうなあ。

ゾッとする場面もある。姫がミカドに迫られて、人ならざる力を発揮してしまう場面。また、月からのお迎えに抵抗を失って引き寄せられてゆく動き。全編にわたって緻密なアニメートによる現実的な芝居づけがきちんとなされているからこその、いきなり物理法則の理の外にはみ出したような、ギョギョギョとさせられる不穏で不吉な動きだ。そして、それにもまして月からのお迎えの場面は本当に怖くて怖くて、どうしようかと思った。なんともしれぬ空虚で脳天気な音曲にのって、阿弥陀如来っぽい連中がわんさか無表情で宙を滑ってくる。あれは本当にどうかしている。ただごとではない。話が通じるような気がしない。アニメーションで、ついぞ描かれたことのない怖ろしさである。ラヴクラフトより怖いよ。お子さまにはとても見せられない。「かぐや姫」なのに。高畑勲の最高傑作であろうと思う。

アニメーション、折りにふれて

アニメーション、折りにふれて

かぐや姫の物語: スタジオジブリ絵コンテ全集20

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