「機動戦士ガンダムUC」の完結と、なぜか「Z」

先日、4年がかりのOVAシリーズ「機動戦士ガンダムUC」が全7作をもって完結した。

福井晴敏による原作小説は読んでいない。完結編の第7章を観るのとほぼ同時に、偶然しばらく前から観かえしていた「機動戦士Zガンダム」テレビ版全50話も観終えることとなった。両作を観終えた感慨は実に深く、いろいろな意味でZとUCは対照的な作品であったのだなあと思う。

心は千々に乱れ、あんまりまとまった文章を書けそうにないので箇条書きにしてお茶を濁すこととする。

  • 「Z」はバンダイサンライズの腐った大人たちに「ガンダムの続きを作れ」と強要された富野が「だったら作ってやんよ」と悪意とヤケクソで作った、「機動戦士ガンダム」とその熱烈なファンへのカウンター作品だ(ということになっている)。ファーストで最終的に描かれた希望は絶望へ、祝福は呪いへ、相互理解は無理解と敵意へと変換されている。
  • 「Z」全編にわたる登場人物同士のディスコミュニケーションはもの凄い。誰かが何かを言うと、別の誰かに即座に否定される… 或いは関係ない話に変えられる、といった場面が異常に多い。
  • 「Z」においては暴力が極めてカジュアルに描かれており、今観るとその感覚にビックリする。ファーストでもブライトさんがアムロを殴ったりしてたけど、「Z」では誰も彼もが気軽に他人を殴る。第1話ではカミーユは空手部の主将に殴られ、名前の件でブチギレてティターンズのジェリドを殴り、逆に天龍ばりのチョン蹴りを顔面に喰らい、さらにはMPをハイキックKO。不自然に思えるほど暴力への敷居が低い。
  • 「Z」第1話はファーストの第1話の流れをなぞっている。コロニー侵入の軍事作戦に始まり、戦艦の発砲で終わる。しかし暴力描写ばかりやってるせいで、カミーユアムロのように第1話のうちにガンダムに乗れない。
  • カミーユの父親フランクリン・ビダン大尉が死ぬ時、それまで登場してもいない愛人マルガリータのイメージがいきなり脳裏によぎる演出とか夕方5時のアニメなのに斬新すぎる。さらにジェリドの戦友カクリコンが死ぬときにも愛人演出が炸裂。富野は愛人、不倫、家庭不和、人間不信とか好きすぎる。そして敢然と子供にそれを見せる。
  • リアルタイムで「Z」を観ていた中学生の頃にはベルトーチカはクソ女だと思っていたが、今見てもクソ女だった。アムロという英雄の隣でデカい顔をしているが、こいつにはセックスしかない。こういう人は現実にもいるよな。
  • 逆に当時いい人だと思っていたエマ中尉、今見るとかなりひどい。実にカジュアルにカミーユにビンタする。一見いい人、一見理性的、一見倫理的なフリをしており本人もそう信じているのだが実態は気分次第でビンタする身勝手な女。こういう人も実在する。
  • 中学生だったオレには理解不能だったレコアさん。戦争という大状況の中で、大義より自分のセックスを優先。シャアが自分になびかないと敵に寝返り、シロッコの安い口説きに身を任せて「今の私は女としてとても充足しているのよ!」とシャウト。こういう人も現実世界にいる。現実にいるが、不愉快なのでフィクションで描かれることは少ない女性像がバンバン出てくる。富野の精神状態が心配になる。
  • シャアの小物感も遠慮なしに描かれている。オレもいつか若者にオヤジ狩りとかされてボコられたら泣きながら「これが若さか…」或いは「サボテンが、花をつけている…」とクワトロ大尉でキメてみたいと思った。中学生感覚ではカッコよく思えた百式は、劇中でけっこうバカにされている。特筆すべきは百式の巨大なメガ・バズーカ・ランチャーで、どう見ても超カッコイイのだけど、全然命中しないんだ。露骨にシャアの不能を表現している。
  • カミーユは稀代のエキセントリック少年で、サラとアイスクリーム食べて「貧しい青春なんだ〜」とか言ってた舌の根も乾かぬうちに「今度会ったら八つ裂きにする!」とブチギレてスピアー敢行、馬乗りになってマウントパンチ。しかし扱いこそ難しいものの、彼は登場人物の中ではいちばん誠実で、いいこともたくさん言っている。本当はいい子なんだ。なのに周りの大人は全員が対話不能の狂人ばかりで、ストレスは溜まる一方。全話見ると、最終回でああなってしまうのは理解できなくもない。気の毒すぎる。
  • 「UC」のバナージ君は稀代のオヤジキラー。彼の青臭い倫理は疲れて汚れた大人たちにも「かつて童貞だった自分」を思い出させ、面倒を見てやろうという気を起こさせる。「Z」を観てイヤな気分になった自分にも、よりよき未来への希望を感じさせてくれる。

で、ロボットだから何なのかというと。お話のなかで、世界を守るロボットを操るパイロットは大概が童貞だ。それはなぜか、という話だ。(中略)「人類のなかで童貞にだけは、最後の最後で愛とエゴ以外のもの(つまり「正義」なるものをだ)を辛うじて選び取るポテンシャルがあると信じられているから、世界の命運を預けるに足るのではないか」あたりまではもっていくべきところ。

http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20090821#p1
  • 「UC」には立派な大人たちが数多く登場し、矜持を示してバナージ君成長のコヤシになる。これは「Z」と対照的で、カミーユの周りにもこういう大人たちがいてくれたら、と思わざるをえない。逆に言えば、バナージ君だって理不尽な理由でバンバン修正されてれば危なかっただろうと思う。
  • 「UC」第7章で、マリーダさんの思念はアルベルトのところには来なかった。キモメンが寄せる慕情など届きはしないという現実が泣かせる。愛する女を勝手に失ったアルベルトの顔は「きれいなジャイアン」みたいな男前になる。あれは童貞に戻ったキモメンの顔なのだ。ああなったアルベルトはリディ少尉なんかよりずっと文学的な存在で、信頼に足る人物である。
  • 富野コンテは画面上の「映像の法則」ばかりに依っていて、ロケ地の(アニメだからロケじゃないけど)構造、位置関係、距離感、遠近や高低を描く空間演出は全然できてない。いかにも虫プロ育ちらしい「場」に無頓着なアニメ屋さんで、それでも宇宙が舞台だからどうにか成立してきたのだ。しかし「UC」の監督古橋一浩さんは空間演出が実にうまく、例えば第6章、戦艦ネェル・アーガマの狭いMSデッキ内でのキャラクターの位置関係、そんな場所で戦闘することの危険性というものがよく判るように作ってある。これは今までのガンダムにほとんど感じたことのない快感だった。
  • 「UC」の音楽は「ガンダム」の一連のシリーズの中でも突出して素晴らしく、たいへん崇高なヒューマニズム、高潔なる倫理、繊細かつ力強い意志を感じる。きっとこの作曲家は童貞に違いない。あんないい曲、童貞にしか書けまい。
  • 大雑把に言えば、富野はファーストで過酷な世界の中の希望を描き、次なる世代の子供たちを祝福した。劇場版「めぐりあい宇宙」のラストに出てくるメッセージ…「And now in anticipation of your insight into the future.」は、今に至るガンダム文化の頂点であり、「ガンダム」という作品の長い歴史の中で、富野と我々ファンが最も幸福だった瞬間であろうと思う。その幸福は、数年後の「Z」で台無しにされるのだが。
  • 乱暴な物言いだけど、ファーストほどの作品をモノにしたら作家はそこで死んでもいいはずだ。しかし富野由悠季は同じことを繰り返さず、どんなにひどい地獄めぐりになろうとお構いなしに前進する作家だ。公平に言ってこれは凄いことで、一生「スターウォーズ」で食ってる人だっているし、Googleに会社を売って南の島で過ごすみたいな余生もあった筈なのだ。
  • ファーストの祝福と「Z」以降の呪いを一身に受けたファンがオッサンになり、富野へ投げ返した返歌「UC」。富野がもう絶対に描かない「立派な大人たち」を描くことで、よりよき世界に希望を持つという信仰を復活させた。ラプラスの箱は、祈りが100年かけて呪いに変質したものとされる。これは「ガンダム」という作品そのもののことだ。それを再び祈りに戻したい、「めぐりあい宇宙」のラスト、あのガンダムのピーク、アニメ新世紀宣言よもう一度というわけで、要するにたとえ世界が何ひとつ良くならなくても、我々は未来への希望を失わず生きていきますよ、富野パイセンご心配なく、とそう言っておるのだ。もっと過激に進んで富野を撃ち、父殺しを完遂する作品も観てみたかった気はするが、さすがに作品世界をまるまる借りといてそれはできないよな。マイナスをゼロに戻すという意味では後ろ向きな作品で、坂口征二的なアプローチと言える。マイナスにマイナスをかけて膨大なプラスを狙うアントニオ猪木的なアプローチではない。
  • 「UC」はガンオタオヤジを狙い撃ちにした極上のポルノであり、ハイコンテキストすぎる作品のあり方には批判もあろう。オレだって文句がないわけではない。しかし終わってみれば、感謝の念しかない。富野の新作「Gのレコンギスタ」はもうすぐだ。「来週もトミノと地獄に付き合ってもらう!」 その覚悟はすでにできている。いや、やっぱりなんか怖いな。ちょっと待ってくれませんか。ダメですか。そうか。