愛せる小品「カリフォルニア・ドールス」に感じた苛立ち

DVDで「カリフォルニア・ドールス」を観た。はじめて観たのは小学生だった1982年、「ロッキー3」との二本立てだったから33年ぶりということになるか。2012年のリバイバルでは「カリフォルニア・ドール」という邦題になっていたようだが、ここでは「ドールス」にしておきます。

愛すべき牧歌的な小品ながら、小さくない不満もあるのだ。(★3)
王者タッグ「トレドの虎」とのタイトルマッチ、30分時間切れギリギリの試合をおよそたっぷり20分かけて見せるクライマックスはたいへん素晴らしい。ここでは「カリフォルニア・ドールス」は映画であることに執着せず、プロレスそのものの豊かさが物語を十全に伝えている。試合なんて面白いんだから、ただ見せてりゃあいいんだよというロバート・アルドリッチの迷いなきオヤジ感覚は正しい。

冒頭にミミ萩原とジャンボ堀が登場し、この映画の核となる技・回転エビ固めを見せる。当時にして日本やメキシコに比べ技術で大きく劣っていた、アメリ女子プロレスの世界。上記ドールスの試合は、技術の稚拙さも試合展開の未成熟も余すところなくさらけ出す。それでいいのだ、そこのところを映画の視覚的技術でごまかしてしまえば観客はドールスの実像に寄り添えず、心から応援することなどできはしないのだから。

引っかかった点は2つ。ひとつ、ドールスは泥レスを頑なに拒絶するでしょう。あれがよく判らない。エロいのが嫌なのかと思えばそうでもないようで、「笑われる」ことが嫌なのだと涙ながらに語る場面がある。女子プロレスラーとは思えぬ精神の脆弱性だ。お前さーそれ松永会長の前でも同じこと言えんの? と思ってしまうなあ。

ふたつ、ピーター・フォークの立ち位置の不明瞭さ。彼はドールスのマネージャーで基本的には裏方なんだけど、時に恋人だったり父親的な役回りだったりもする。それは全然いいのだ。圧倒的によくないのは、彼がリングに上がり、勝利したドールスを抱き寄せ、キスしたりする行為である。

映画の中で、それは自然なことなんだ。彼は映画の冒頭からドールスと三人四脚でドサ回りをしてきた仲間なんだから。映画の観客にとっては、そうなのである。しかし、リノの会場を埋めたプロレスの観客にとっては「そうではない」のである。まず、お前誰やねんでしょう。マネージャーです。マネージャーか。ほんならきょうびのマネージャーはあれか、女子レスラー抱き寄せてチューとかするんか。ドールスってそういうタッグか、お前らズブズブか。勝利して歓喜するドールスの間に入って、ど真ん中でガッツポーズか。そんなマネージャーが出しゃばった写真、週プロの表紙には使えんやないか。判ってんのか?

ある意味で映画であることをやめてプロレスを見せたからこそ素晴らしかったクライマックスを、ピーター・フォークは裏切ったよな。プロレスじゃないです映画です、だから映画スターのぼくがセンターに立つんですと奴はそう言っておるのだ。ここは本当に重大なところで、【ピーター・フォーク】の好感度、トボけた味をもってしてどうにか許されているに過ぎない。なにしろ本職は天使だからな。普通なら大ブーイング、昭和の観客なら一升瓶が飛んでくるところだ。

さて、我々プロレスの観客が(映画からプロレスへはアルドリッチが誘導したんだからな)忘れてはならないのは、映画がここで感動的に終わっても、プロレスは終わらずに続くということである。ビールをあおっては缶を握りつぶすビッグ・ママのメインイベントが、このエンディングの後に控えているのである。ドールスなんて所詮セミなのである。そしておそらくこの日の観客はデビル雅美みたいなオバチャンであるビッグ・ママの、鉄板面白いに決まってる試合の印象こそを胸に抱いて帰路につくであろう現実に、思いを馳せたっていい。必ずしもドールスではないんだよな。

思えばこの映画の初見は1982年、「ロッキー3」との二本立てだった。「ロッキー3」にはリアルアメリカン、ハルク・ホーガンが出演しており、ショウビズの何たるかを短時間で表現しきっていた。泥レス嫌がる感覚とは雲泥の差である。「カリフォルニア・ドールス」が遺作になったアルドリッチ翁には到底できない革新的表現を若きシルベスター・スタローンは成し遂げたわけで、ここに時代が移り変わる瞬間を見いだせた自分は幸せな体験をしたんだなと思う。