実写「進撃の巨人」後編の前半を観て思ったこと

前編からの因縁もあって、「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN エンド オブ ザ ワールド」を観に行った。正直言って「ジュラシック・ワールド」みたいにそこそこ楽しいに決まってる映画をわざわざ観るなんてめんどくさいなーというやさぐれ気分であったのは確かだ。

さて後編だが、後半寝ちまったので感想もクソもない。きっと面白い映画だったんだろう。ジュークボックスの凄まじい場違い感とか、エレンの前にシキシマ先輩がシャンパン持って登場とか、いつの間にか2人とも部屋着に着替えてたりとか(なぜだ。事後か)、前半だけでもおもしろ要素はいっぱいだ。しかし、壁に着くともういけない。穴を塞ごうが塞ぐまいが、心底どうでもいいと自分が思っていることに気づかざるを得ず、睡魔に負けてしまった。でも終盤の格闘からラストまではまた起きて観たよ。あのねえ、エンドロールで席を立ってはいけませんよ。

冒頭に國村隼のお寒いお寒い説教があり、なんだこいつ芝居ドヘタやなーと思ったものの、彼が「アウトレイジ」なんかでは別人の如くまったく寒くなかったことに思い当たり、目の前が暗くなるような気持ちになった。ド寒いのは、役者ではなく樋口真嗣の演出能力なのである。しかしちょっと待ってくれ、樋口真嗣はたけしの10倍くらい映画観てるんじゃないのか。ガキの頃から特撮現場に侵入してきたオタクエリートなんだ。それがあんなすっかり面白くなくなった芸人に、映画基礎体力で圧倒的大差で負けてんだ、アンビリーバボーとか言ってるやつに。いやまあ北野武なんてとっくの昔に世界の巨匠で、オレだってそれくらい知ってます。しかしこの歴然とした力量の差、呆然とする他はないよなあ…

芝居がつけられない監督の能力不足はともかく、町山智浩が脚本に参加してこのザマなんだという事実にも意気消沈せざるを得ない。前編の時も書いたがオレはライター・評論家として町山氏を好きだし、おおむね支持できる(時々はできない)。しかし今作はかつて映画秘宝が口を極めて罵り、コケにしてきた底抜け邦画そのものだ。聞けば各方面からの様々な要求に応えて何度も何度も脚本を書き直したとのことで、なるほどそりゃーさしもの町山氏の軸もブレちゃいますわなーと思ったところで今回の結論。

数々の底抜けバカ映画の多くは、たぶんひとりひとりは決してバカではない、むしろ優秀な人々によって作られている。ただ彼らには立場の違いが生む様々な思惑があり、すべての思惑を実現することは原理的に不可能で、作品の根幹には宿命的に矛盾が生じてしまう。船頭の多い製作委員会方式の映画は、この穴に落ちやすく山に登りやすい。これを回避する方法には黒澤天皇方式、ジョージ・ルーカス庵野秀明の稼いだマネーで自主制作方式、また王道としては自分が偉くなり製作も兼ねるヒッチコックスピルバーグ方式などがある。複雑な思惑の混乱がなければ、映画には作り手の力量がそのまま反映される。その意味で混乱した実写「進撃の巨人」よりも遥かにストレートに「作家の映画」だったと思うのが、やはり樋口真嗣が参加した「CASSHERN」だ。タツノッコン王国の思惑どこへやら、あれは徹底的に作家キリキリこと紀里谷和明の映画だった、出来はまあアレとして。

蔓延する製作委員会方式の下では、個人の才能は突出しにくい。テレビ局映画なんかその最たるものであろうが、一方で放ったらかし気味にされた空き家みたいな企画から「桐島、部活やめるってよ」のような佳作が生まれることもあり一筋縄ではいかない。そして、現代日本における「有能な監督」とは芝居をつけるのがうまい人ではなく、矛盾した様々な要求に対してとりあえずNOと言わない人、作品がある程度おかしくなってしまうことを厭わず、各方面の様々な思惑を呑み、あっちを宥めこっちを誤魔化し、幾つもの矛盾を抱えたまま各所根回し調整してどうにかこうにか形に仕上げられる監督のことを言うのだろうと思う。「ときメモ」で女の子たち全員の爆弾が爆発寸前ながら、どうにか爆発させずにグッドエンディングに辿り着くような才覚が求められるのだ。しかしですね、身勝手な観客としては、やっぱり黒澤天皇方式の映画が観たいんだよなあ… 三船敏郎を本物の矢で射るような映画が…(あれ現代なら逮捕されます)