「天気の子」を観た

新海先生はいつも新しいプレイを我々に教えてくれる ★3


確かなところから言うならば、新海先生は「君の名は。」でとった万馬券をオール全額すべて換金して「天気の子」に張り、長い製作期間中(アニメ作りは手間暇かかって大変そうです)にも張ったコマをいっさい下げなかったとお見受けする。批判を恐れるような手堅い表現は、この映画にはなかったように思う。なんなら「君の名は。」より遥かに自由気ままに、心の赴くままに作っているようにも見えた。ホンマにおそろしい男やで。


今作には現実の企業、店舗、webサービス、広告看板、CM、流行歌などなどが実名で数多く登場する。いい使われ方とは言い難いものも少なからずあるが、それでも許諾を得られるのは前作大ヒットの神通力なのだろう。「君の名は。」の大ヒットは新海先生に数々の恩恵と呪いをもたらしたと思うがここではそんなヨタはすべて捨て、作品の感想を書く。


気が進まないのだが正直に言うと、この映画そのものを「スゲエ最高」とも「ひでえ最悪」とも思わなかった… というより、よかったのかよくなかったのかさえも整理できていない。観ている最中は様々な感情の激しい乱高下があり、とても落ち着いてじっくり鑑賞できたとは言えぬ。魔法のように素晴らしい瞬間と地獄のようにひどい瞬間がメチャクチャに混在しており、ブンブン振り回された。


いつもの如く新宿が出てくるのだが、これが過去作の過剰に美化された新宿ではない。セックス、バイオレンス、バニラトラック。貧困の家出少年に歌舞伎町の水は冷たい。社会派映画とまでは言わないが、現代の若者に向けた映画を作るにあたって新海先生は現代社会、時代の気分をちゃんと真面目に考えて向き合っている… いや以前からちゃんと考えてはいたんだろうけど、今回は考えたことがきちんと画と話になっていると感じた。これは先生の善良なる美徳だと思うもののその反面、あんまり真剣に考えてないところは悲惨なことになるという諸刃のヤバいヤイバだと思うのだ。


何がひどいかといえば、スペース☆ダンディみたいな髪型の刑事と、平泉成平泉成のモノマネをしている平泉刑事、この2人がぶっちぎりでひどい。正直言ってオレは真面目に観てんのが阿呆らしく、恥ずかしくなった。連中が出てる場面はすべて正視できない。漫画喫茶MANBOOはあれほど写実的に描いてるのに、警察絡みの場面は総じて嘘くさい。少年はランボーよろしく簡単に池袋署を脱走する。警官の戦闘力舐めすぎだろう。でも巡査の「公妨!」はいい台詞だったな。


現実的な描写が冴えわたるほど、いいかげんなご都合主義は悪目立ちする。神宮の花火がビルすれすれでドッカンバッカンなんて、ビジュアル優先なんだろうけど鼻白んだ場面だ。個人的には東京競馬場を晴れにする短い場面も気に喰わない。雨だと走らない馬、そんなもん大半の馬が多かれ少なかれそうだ。長雨のあと日中だけ晴れても馬場はすぐ回復しないし、そもそも特定の馬が雨だと走らないと判ってるなら馬券から切ればいいだけだ。晴れ女への依頼そのものが成立していない。新海先生、競馬やったことないのかな。別にやんなくてもいいんだけど、ドロドロ馬券オヤジに取材ぐらいできそうなもんだ。週末のウインズ新宿になんぼでもドロドロのたくってますよ。ワンカップでも奢ってやればゴキゲンで喋ってくれますわ。


占いババアや神社のハゲが語ることがすべて真実というムー民史観はジュブナイルとして問題があるし、少年が傷天ビル(ドラマ「傷だらけの天使」に出てた代々木会館)の屋上から空に行けると確証もないまま思い込むのも、新海作品では毎度ある弱点だ。少女はラブホで消えたんだから、ラブホの屋上からでも空へ行けたかもしれんやん。めぐりあい宇宙できたかもしれんやん。辻褄や整合性に無頓着な作劇が「君の名は。」のバカウケに起因するとしたらこれも呪いのひとつであろうが、ナーニ新海先生は昔っからこんな感じなのでオレも今さら目を三角にして怒ってるわけじゃない。そうだ、呪いといえば「君の名は。」主要人物の再登場、オレは全然嬉しくなかった。瀧くんが影から日向に登場とか、三葉ちゃんの顔を勿体ぶってなかなか見せないとか、ひどく映画の邪魔になってると感じた。あの2人の声はやはり特別で、モブじゃ済まねえんだよな。それがなくてもこの映画、「ラノベの設定みたいな話」がこの映画そのものだったり初代プリキュアのコスプレとかカードキャプターさくらの「ぜったいだいじょうぶだよ」リスペクトとか、映画の枠を越境してくるメタな描写が多くて忙しいのである。


空の上の世界で少女と邂逅するクライマックスは、はっきり弱いと思った。あのー、お空の上には何もないでしょう。だだっ広いだけでしょう。宙を躍るキャラクターの作画は素晴らしいのだけど、あの空間の何もなさが場面として弱すぎるのだ。街の場面の方が、画面が強いんだ。新海先生は対象を描きこむことで異常な密度のルックを獲得した映像作家だ。だからだろうか、一応は水の魚とか出してるんだけど、弱かったな。


クライマックスの量感が不足したせいか、3年後の話は何ひとつピンとこなかった。そもそも、たかだか3年雨が降ったぐらいで東京が水没しますかね。数十センチの冠水ではない。スピルバーグの「A.I.」終盤の2000年後のニューヨークみたいになってたぜ。海面が上昇するか、地盤が沈下するかしないとああはならんのじゃないのかな。そもそも少年が出戻った神津島は全然水没してないではないか。まあ神津島も東京都なのに少年は「東京ってすげえ」と言ってたから、どこか別の世界の神津島なのかもしれないが。


世界より少女を選んだ、ということでこの映画はセカイ系を終わらせた、なんていうご意見をさっきネットで読んだんだけど、いやいや東京がジンワリ水浸しになっただけですやん。「シン・ゴジラ」の方が東京大変ですやん。東京なんぞ少女に比べりゃ安いもんですよ。オレが心からそう思うのは、新海先生の表現欲求の根幹である少女絡みの描写が実に素晴らしかったからだ。この分野では、先生は本当に他者の追随を許さない。先生もういっそエロゲー作ってくださいや、と言いたくもなる。今回は年上だと思ってた少女が実は、という展開が実に素晴らしい。この労せずして二度美味しい感じ、新海先生はいつも新しいプレイを我々に教えてくれる。判明する場面に少女は不在なんだよな、最高かよ。これが逆で年下が実は年上だった、なら全然ダメなんですよ。それこそ歌舞伎町ではよくある話で。


オレが最も感動した場面は、実は少年が線路を走って傷天ビルへ向かう場面だ。オレは思い出したのだ。2017年の春先に、電車で痴漢したのが発覚したクソ野郎が、或いは痴漢と間違われた冤罪の被害者が、ホームから飛び降りて線路の上を走って逃げるという事件が関東で頻発し、格好のニュースネタになったものだ。2007年の「それでもボクはやってない」公開から10年経っていた。証拠がなくても絶対有罪にされるから何としてでも逃げるべし、という了見なのだろうが、線路を走ることそれ自体が違法なのでよいこはぜったいマネしてはいけません。痴漢ダメゼッタイとか冤罪ダメゼッタイとか逃亡ダメゼッタイとか、まあよくも悪くも話のタネになるニュースであった。オレは、新海先生はこのニュースを見たか聞いたか読んだに違いないと確信している。2017年の春といえば「君の名は。」のブームも落ち着きつつあり、先生は「天気の子」のプロットを練っていた時期だと思われる。もうお察しだろう、オレが驚愕し感動するのは、新海先生がこのニュースを知って痴漢よりも冤罪よりも何よりもまず「線路の上を走ったら、どんな東京の景色が見えるだろうか」と思ったに決まってるからだ。高架になっている線路の上の、誰もまだ見ぬ(まあ鉄道会社の作業員は見てるだろうが)新鮮な東京の風景、その映像に、新海先生は飛びついたのだ。線路上を逃げるおっさんだけが目撃できた「風景」に思いを馳せたのだ。これは極めて異常なことだと思う。ちなみにオレもボンヤリこのニュースを見た覚えはあるのだが、そんな線路上の景色のことなんて夢にも考えなかった。電車が来たらあぶないなー、なんて思ってたのだ。新海先生の、なんという感性。美しい情景を探し求め狩りをするハイエナ、いやハイエナはイメージがよろしくないけど、なにしろド凄い映像作家だと思うのだ。


ちなみに「天気の子」を観た友人夫婦に同じことを熱弁したところ、「ニュース見たとは限らないでしょ?」と冷たい反応だった。言われてみると確かに、何のきっかけもなくただ思いついた可能性はある。それはそれで凄い。でも、でも新海先生は絶対ニュース見たんだよお。見たに決まってんだよお。でも痴漢ニュースが元ネタなんてイメージ悪いから絶対インタビューとかでは言わないだけなんだよお。時期だっていい感じに合ってるでしょお。ふたつでじゅうぶんですよお。わかってくださいよお。


そんなわけで、万馬券とはいかなくても「天気の子」はやっぱり面白かったと思う。ただそれでもオレが不安を感じていることがあって、引き算で作っていたと思われる先生のミクロな映画が、どんどん足し算を繰り返すマクロな映画に変質してきているということだ。オレのこのレビューの褒めたり貶したりの支離滅裂も、足し算の映画ゆえのことだ。いらんものをどんどん引いて純化した、結晶のような美しい、頭のおかしい「秒速5センチメートル」のような映画を新海先生はもう作ってくれないのではないか、という不安が拭えないのだ。川村元気に鎖でつながれて、ヒット請負人として東宝メジャー作品ばかり作らされるのではないかと心配なのだ。マイケル・ベイ先生なんか死ぬまで「トランスフォーマー」を作り続けさせられそうになってたからな。マーそもそも新海先生がヒット請負人の立場になるなんて、以前には想像もできなかったんだよなあ。隔世の感がある。今まで散々文句ばかり言っといて我がことながらファンなんて勝手なもんだと思いますが、今は無理でも、いつかはまた、ミクロな狂った作品もべろべろしゃぶらせていただきたいと思うのであります。音楽は天門でお願いします。

東京から高松に移住してはや2ヶ月、なんやかんやと忙しく、はてなブログも先月は書けなかった。環境が変わったのでここに書けることなんか山ほどあり、書けないことなんかその20倍はあるのだが、なにしろ自由になる時間が少ない。アニメ視聴も遅れがち。でも夏アニメの「女子高生の無駄づかい」は面白いですね。

このエントリは新海先生の新作映画を初日に観たという話なのだけど、「天気の子」公開の前日に京都アニメーションの惨い事件があった。速報を知った最初は、痛い子がちょっと暴れてボヤが出た、ぐらいの話かと思っていたのだ。しかし残念なことにそうではなかった。とりかえしのつかないことになってしまった。

全国のアニオタ諸兄と同じく、オレは「天気の子」をそのような動揺の中で観ることとなった。告白すると、映画観てていいんだろうか、映画観てる場合なんだろうかという気分も少しはあった。まあ観たんだけど。実に不安定な気分での忘れがたい鑑賞体験になったことは事実だが、こんなことは望んでなかった。今からでも京アニ事件、なしになんねえかなと思っている。