「ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク」とスピルバーグとぼく

昨晩金ローでやった「ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク」を観た。先日の高畑勲作品といい、こいつ金ローばかり観てやがるなと思われても仕方ないし、まあそうなんだけど、これはたまたまであって、テレ東の午後ローとかも観ています。以下「ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク」の感想。当時の劇場では観ておらず、初見はVHSソフトだったので、2度目の鑑賞。

唯一心を奪われたのが、ビデオレンタル屋の店内にバスが突っ込んでくるカット。バスからギリギリ逃げる客たちが凄いスタントだと思ったのだが、これもCG使ってんのかな。 ★1


バカとバカとバカと大量のバカしか出てこないため誰にも肩入れできぬばかりか終始イライラさせられる本作は、マイケル・クライトンの原作小説と脚本参加を待たずにデヴィッド・コープが単独で勝手に書いた知能指数ゼロの脚本を、ティラノサウルス本土上陸を撮れることに目がくらんだスピルバーグが何も考えずに早撮りしたものだ。


これによって判ることは、クライトンが娯楽小説の中で曲がりなりにも表現しようとした科学への疑念や生命倫理といったテーマをスピルバーグは何ひとつ理解しておらぬばかりか興味も一切なくて、前作のそういった部分はただ脚本通りに撮っただけで、本当に興味あったのは恐竜の挙動とダメオヤジの成長、本質からズレたどうでもいいサスペンスごっこのみにすぎなかったということだ。


我々は、スピルバーグさんのこういうアレなところを理解してあげなくてはならない。『激突!』も『ジョーズ』も、そういう子供じみたスピルバーグだから作ることができた傑作だった。つまりクライトンの着想と作劇を借りた前作『ジュラシック・パーク』よりも本作『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク』こそが、スピルバーグの本質的な作家性があらわれたド真ん中の作品なのだ。誰だって、そうは思いたくないよな。オレも思いたくないよ。しかしスピルバーグが徹底してディレクター=演出家であって、ストーリーテラー=脚本家ではない、ということなら同意いただけると思う。


それにしても我々の愛する娯楽映画の申し子スピルバーグが、連結型キャンピングカーが崖から落ちるかどうかドキドキですね! と頑なに言い張るズレたオッサンであることを認めるのは辛いことだ。しかしインディ・ジョーンズ映画なんて全部ズレたドキドキで構成されたカラッポ映画で、そうと薄々知りつつみんな喜んでたんだから、この辛さは引き受けなくてはならないよな。


我々の世代の巨匠スティーブン・スピルバーグさん、お好きな方は多いだろうが、わたくし個人は「オレはスピルバーグが好きなんスよォー、大好きッ!」とは全然思っていない。本気で死ぬほど好きなのは「激突!」と「ジョーズ」のみで、大きな声では言えないけどかなり好きなのは「1941」だが、他はそうでもない。「プライベート・ライアン」を、もう一度観てみなくてはと思っているくらいだ。インディ・ジョーンズは全部嫌いだ。「E.T.」は最も重要な映画と思うが、好きかといえばこれも違う。頭いい路線は、すべて信用していない。


製作作品なのであんまり関係ないが、みんな大好き「グーニーズ」もオレの大嫌いな映画のひとつだ。12歳当時劇場で観て、オレをバカにしてんのかと呆然としたものだ。いまだに同世代の映画好きが「グーニーズ」を好意的に語るたび、居心地の悪さを勝手に感じている。しかし今にして思えばあれは製作スピルバーグの映画でも監督リチャード・ドナーの映画でもなく、脚本クリス・コロンバスの映画ですわな。


スピルバーグの功はたくさんの人が語っているので、ここでは罪のほうを書いておきたい。上記ジュラ2の感想でも書いたような、本筋に関係ないどうでもいいサスペンスを尺かけて長々と展開するという恥知らずな映画作りを始めたのは、他でもないスピルバーグだと思うのだ。ジュラ2より遥かにマシだった前作「ジュラシック・パーク」においてさえ、樹の上から車が落っこちてくる、あぶなアーい! という、クッソどうでもいいサスペンス場面があった。本筋とも観客の興味とも何ら関係ないため、実はサスペンスとして成立さえしていない。出来損ないのイベントを脈絡なく「置きに行く」ようなこういう展開を、なぜかスピルバーグは好んで作る。インディ・ジョーンズは全部これ。そして凡庸な作り手たちほど非常にこれをよく真似するために、この悪癖はアメリカ娯楽映画にひとつの潮流を作り、全体のレベルを下げたと言ってもいいと思う。ジェームズ・キャメロンのような腕の立つ作家は、絶対にこんなことはやらない。


スピルバーグもいつか死んで、その時はみんな手放しで誉め讃えるのだろう。映画の申し子、映画の神様、映画の良心とさえ言われるだろう。本当に死んだらこの記事のようなことが言いにくくなるので、彼が死ぬ前に書いておいた。そういうことです。

高畑勲作品を2本、テレビで再見

2018年4月5日に高畑勲が亡くなった。正直言って、超悲しいですぼく泣いちゃいます、とは全然思わなかった。そうか死んだのかあ、と思っただけだ。その死をまっとうに悲しむには、オレにとって高畑勲は怪物すぎた。

東大仏文科卒のスーパーエリート高畑勲は思想の人で、豚であるところの大衆、つまり我々度し難き愚民を水槽に入れて観察し、その研究と描写に生涯を費やした人という印象がある。たぶん高畑勲個人はいい人だと思うのだけど、創作では客観的で突き放した、圧倒的に冷徹な作品を作る。

4月13日、日テレは緊急追悼で「火垂るの墓」を放送した。RECしといて、後日久しぶりに観た。公開時に「となりのトトロ」との二本立てを劇場で観て、VHSのビデオソフトで観て、テレビ放送も1回は観たと思うので、たぶん4回目か5回目の鑑賞だ。

公開当時、野菜泥棒した清太を百姓が殴る場面は未完成で、無着色の線画のままだった。高校1年だったオレは「斬新な演出! さすが高畑!」と感心し、まさに高畑勲に叱られても仕方ない明き盲っぷりを露呈した。それでもいわゆる単純な反戦映画ではないことは、2回目くらいの鑑賞で判っていたと思う。

今回観てみて驚愕したのが、清太が節子に恋人や母親の役を投影し、近親相姦願望を持っていたことを明確に描いている点だった。節子の死後、清太の幻想として描かれる一連のアイドルビデオみたいな場面が凄い。おヌードは勿論、ふりむいて笑顔とか、針仕事=世話焼き=甘やかしプレイとか、敬礼(ミンメイ!)とかひと通りやってみせる。ゾッとするほかない。

「節子は私の母になってくれたかもしれない女性だ!」 とくれば、これは完全にシャア・アズナブルである。まさか神戸弁の中学生と、宇宙翔ける赤い彗星が重なるとは思わなんだ。

節子自身は幼女なので、普通に母を求めて泣く。だが母の無惨な姿を目撃DQNしてしまった清太からは母を慕う気持ちが消え失せてしまい、その代償に節子にとことんのめり込んでいく。この感じが本当に危ない。そこに節子の意志はもはや存在せず、清太は恋人や母親の依代、偶像、人形として節子を愛でてしまう。押井守の「イノセンス」より16年早い。

きれいに死んだ節子を、腐敗する前=母のように醜くなる前に速攻で焼く清太が涙ひとつみせないこのブッ壊れた感じ、マジでイカレてる。本当にヤバイ怖い映画が何かの間違いでテレビで放送されていて、しかし日本中みんな感動して泣いているのだ。なんだこれすげえ。宮崎駿が悪魔と契約した表現者なら、高畑勲は表現の悪魔そのものだ。

5月15日には三鷹ジブリ美術館高畑勲のお別れ会があり、宮崎駿が涙ながらに読んだ弔事ならぬ開会の辞、その内容を報道で知り、動画も見た。オレは冷たい人間なので、フーンなるほど、そうかー。と思っただけだ。

追悼気分さめやらぬ5月18日、日テレは「かぐや姫の物語」を放送した。これもRECしといて、後日観た。劇場2回とDVD以来、4度めくらいの鑑賞だ。

かぐや姫の物語」公開時、印象深い感想のひとつが雨宮まみさんの記事だった。

『かぐや姫の物語』の、女の物語 戦場のガールズ・ライフ

不思議な縁で一度だけ、生前の雨宮さんと同席する機会があった。きれいな、花のような人だと思った。正直言って雨宮さんや女性の多くがいかに生き辛く、どれほど抑圧されているのか、がさつなおっさんのオレには想像すれども本当のところはよく判らない。それでも、この感想には胸を衝かれた気がしたものだ。まあそれはそれとして、オレはオレのがさつな感想を書くしかない。

以前書いた感想はこれ。
観たぜ「かぐや姫の物語」 挑戦者ストロング
「かぐや姫の物語」 追記 挑戦者ストロング

今回の放送を観て、発見がひとつあった。映画の後半、かぐや姫が月に帰らねばならぬとなった後、屋敷の中の作業小屋でわらべ唄の続きを唄う場面。ここに妙なインサート映像が3カット入るのだ。まず夕焼けの海と陸、雁の群れ。次は海辺を空撮でトラックバック、駆けてきた男と幼子が波打ち際で立ち止まる。最後は海辺に立つ松の木の下で、月を見つめる男と子供(2カット目より少し大きいようだ)。

 
 

劇場での初見時にはなーんだ妙なカラオケ映像だな程度の印象で全然気にしてなかったのだけど、今回観てびっくりした。松があるのは松の原、つまり三保の松原、ということはこれって「羽衣伝説」の結末を描いてるんじゃないのか。2カット目は地上を離れ天に去る天女の俯瞰視点で、砂浜を走って見送る夫の漁師と我が子の姿を。3カット目は天女が去った後、かあちゃんを思って月を見つめる父子の姿。ま、羽衣伝説のストーリーは常識だろうからここでは説明しない。Wikipediaの「三保の松原」の項には、上記インサート映像1カット目とほとんど同じ構図の写真が載っているので参照されたい。

オレは昔、能の「羽衣」を観たことがある。観世流だった。この「羽衣」では天女は漁師からすぐ羽衣を返してもらい、その場で天女の舞を踊る。幽玄なる舞に漁師と我々が陶酔するうちに、天女は天に帰ってしまう。「E.T.」を色っぽくしたようなお話だった。そういえば、手塚治虫の「火の鳥」にも羽衣編というのがあった。舞台劇をそのまま漫画にしたような実験的なやつで、あまり好きじゃなかったが。

さてアニメに戻ると、唄い終えたかぐや姫は嫗にこう言うのだ。

「遠い昔、この地から帰ってきた人がこの唄を口ずさむのを、月の都で聞いたのです」
「月の羽衣をまとうと、この地の記憶は全てなくしてしまいます」

マジか。「羽衣」の天女は、かぐや姫のパイセンだったのだ。「羽衣」はいつの話なんだかよく判らなかったんだけど、さっきネットで調べたら奈良時代に編まれた「風土記(古風土記)」によるものらしい。この映画は劇中設定を平安時代としているから、時系列上も確かにパイセンなのである。

つまり高畑勲のヨタ話はこういうことだ。「羽衣」の天女は月から奈良時代の地上にやってきた。この天女はあろうことか地上で愚民と結ばれ子をなしたので、事態を重く見た月世界当局は天女を本国へ強制送還し、記憶を奪ってしまった。天女が覚えているのは、地上のわらべ唄のみ。その不思議なわらべ唄を聞いてしまった月人の少女は生命の坩堝たる地球に憧れちゃって仕方なく、決死のテロリズム精神で大気圏単独突入。平安時代の竹林に落っこちて、翁に拾われた。羽衣伝説と竹取物語を股にかけた、壮大なクロスオーバー作品。今川泰宏監督の「ジャイアントロボ THE ANIMATION 地球が静止する日」かよ。

そうと判れば、月に赤ん坊の姿が重なるラストカットの説明もつく。あれは地上におけるかぐや姫の幼少の姿の回想かと思ってたが、そうであれば月と重なるのは具合が悪くて変なのだ。あれは、姫がこれから生む赤子の(未来の)姿なのだ。なにしろ姫は、地上のマイルドヤンキー捨丸兄ちゃんと空中セックスして身ごもっている。生まれてくる赤子は成長し、地上のすべてを忘れた母こと元かぐや姫がブッ壊れたレコードプレイヤーのように唄うわらべ唄に魅了され、いつの日か地上にやってくるのだろう。歴史は繰り返す。赤子の性別は判らないので、今度はどの昔話に登場するキャラクターになるのやら、想像もつかない。海に落ちて竜宮城の乙姫になるか、スケール間違えて一寸法師になるか。これが高畑勲の、まんが日本昔ばなしスーパースター列伝構想なんだよ! な、何だってェー! 高畑監督、さようなら。

追記

オレは「かぐや姫の物語」で大嫌いな場面があって、それは何かといえば捨丸パイセンと空飛ぶ場面だ。背景を3DCGで処理しており、クソつまらないこと甚だしい。高畑勲らしからぬ、明らかな手抜きだと思うのだ。ここは絶対全作画で描くべきだった。パースが狂ってもいいんです。それが味ってもんです。たとえば海外アニメには「スノウマン」という佳作もあり、高畑勲が知らぬわけはないのだが。

スピルバーグ翁と遊ぼう 「レディ・プレイヤー1」

公開初日に「レディ・プレイヤー1」を観てきた。前座に「パシフィック・リム:アップライジング」を観たのだけどこれがダラダラ冗長な映画でガッカリしたので、直後に観た「レディ・プレイヤー1」は非常に楽しめたよ。

以下感想ですが、決定的なネタバレを含むので未見の方は絶対に読まないように。予告編にも一切出てない大ネタがあります。

スピルバーグは地球に残る人 (★3)

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同情の拍手はいらない 「シェイプ・オブ・ウォーター」

アカデミー賞が発表されたから、というわけでもないのだけど「シェイプ・オブ・ウォーター」を観てきました。あんまり気に入らないんだろうなという事前の予想が当たってしまった。以下の感想では結構悪口書いてますが、まあアカデミー賞とったんだからいいだろう。ネタバレありますのでご注意を。

よせ、野暮になる。(★2)

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「ひるね姫」で出たヘドを

ひるね姫 知らないワタシの物語」をブルーレイで観た。ま、評判もあまりよろしくなかったこの映画を観た人も少ないのでしょうが、これが実にひどい作品で、早速怒りの感想を書いたものの、先日からCinemaScapeが落ちており投稿できない。はてなダイアリなんかに酷評を載せると以前の「スカイ・クロラ」の如くプチ炎上してめんどくさいことになるかもしれんのだけど、まあ押井守作品に比べりゃファンも少なかろう、と思ってここに載せる。一応ネタバレありますが、もはやネタバレとかいう問題でもあるまい。

ヘドが出ます! 大っ嫌い!!(★1)

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ネタバレ前に観ましょう 「スリー・ビルボード」

スリー・ビルボード [Blu-ray]

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マーティン・マクドナーさんは、もともとアイルランドやイギリスの演劇の世界の人だそうだ。わたくし演劇のことはサッパリ判らないのだけど、この人が作った映画はなぜか観てて、「ヒットマンズ・レクイエム」も「セブン・サイコパス」も非常に面白かった。
ヒットマンズ・レクイエム (字幕版)セブン・サイコパス Blu-ray

ということで評判の高い新作「スリー・ビルボード」を観に行ってきましたよ。いやーこれがまた凄い映画で。まだ観てない人は、以下の感想も読まないほうがいいです。すぐ観に行ってください。

リアルは地獄 (★5)

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アクラム・ペールワンの国で 「娘よ」

amazonビデオの有料レンタルで、パキスタン映画「娘よ」。監督・脚本・製作はアフィア・ナサニエルという女性で、初監督作品。内容は公式サイトでも読んでください。

http://musumeyo.com/

マッドマックス 怒りのデス・ロード」と酷似した映画が、その前年にパキスタンで作られていたとは興味深い。僅かな瑕疵はあれど、力ある見事な映画だ。(★4)

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「スター・ウォーズ/最後のジェダイ」


あんまりテンション上がらなかった「最後のジェダイ」だが、年末に観てみたら存外楽しい映画だった。ただそれで済む訳もなく、以下のような感慨を抱いた次第。ハッキリ言って創造的才能と高潔な志を持つ映画監督は「スター・ウォーズ」に関わってはいけないし、関わっている場合ではない。つまり仕事師J・J・エイブラムスというのは絶妙のはまり役だったのだ。今回のライアン・ジョンソン氏はどうだったんだろうな。

楽しい映画ながらどんくさい部分も多く、眼高手低の誹りは免れまい。好きな場面も少なからずあるんだけどな。(★3)

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映画オールタイムベストテン2017

下記に参加します。

映画オールタイムベストテン:2017 - 男の魂に火をつけろ!

id:washburn1975さんのこの企画、わたくし10年前にも参加しておりました。

映画オールタイムベスト10 - 挑戦者ストロング

まー10年も経てばベストテンなんて総取っ替えになってもおかしくないのですが、今回は以下のようなことでひとつ。どちらかといえば、誰もが認める名作は控えめにして、世評は高くないけどオレは傑作だと思う映画はなるべく積極的に選びましたよ。

2.銀河鉄道999(1979年、日本、りんたろう

銀河鉄道999 [Blu-ray]

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3.街の灯(1931年、アメリカ、チャールズ・チャップリン

4.デルス・ウザーラ(1975年、ソ連=日本、黒澤明

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6.奇蹟/ミラクル(1989年、香港、ジャッキー・チェン

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7.のるかそるか(1989年、アメリカ、ジョー・ピトカ)

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8.上海ブルース(1984年、香港、ツイ・ハーク

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10.新Mr.Boo!アヒルの警備保障(1981年、香港、マイケル・ホイ)

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しまった、また宮崎駿が入ってない… 選ぶなら「天空の城ラピュタ」だろうけど、もっと好きなのがテレビアニメの「未来少年コナン」なんだよな…

大文字三郎を探して

1992年10月23日、日本武道館、UWFインターナショナルの興行において高田延彦vs北尾光司の一戦が行われた。詳しくはこちらを。

神様が降りて来た夜(1992) - 【腕ひしぎ逆ブログ】

当時20歳だったオレは武道館2階席の後ろの方、つまりいちばん安い席でこの試合を観戦した。そりゃーもう小便漏らすくらい興奮したものだった。高田延彦の最高傑作と言ってもいいこの試合だが、歴史の中で忘れ去られつつある引っかかりがオレの胸のうちには残っており、そのことを書き残しておきたいと思う。

当時、北尾光司は困ったちゃんの現代っ子だった。大相撲で横綱を張るもいろいろやらかして廃業、スポーツ冒険家を名乗るも実績は週刊プレイボーイで人生相談コーナーを担当する程度、新日本プロレスに参戦するもしょっぱい試合を続けた挙句に長州力に民族差別発言をぶっかけて契約解除、SWSに参戦するもアースクエイク・ジョン・テンタに八百長野郎とマイクで叫んで解雇。良識ある人々が眉をひそめる鼻つまみだったわけだが、個人としての北尾は旧弊なる80年代の角界でパソコンを嗜み、ナイフマガジンに連載を持ち、テレビアニメ「赤ずきんチャチャ」に耽溺した。オレは北尾に、早すぎた現代オタクの肖像を垣間見るのだ。後の佐竹雅昭は特撮映画好き、高山善廣(回復をお祈りしています)は田宮模型への就職も考えたというプラモ/RCカーマニア、棚橋弘至はライダー好き、獣神サンダーライガーは怪獣フィギュア造形職人。いずれも「男の子」趣味のレスラーが多い中、少女漫画原作のアニメ「赤ずきんチャチャ」にのめりこんだ北尾光司の先進性は現代でこそ再評価されるべきである。いやこれは余談であった。

さてSWS解雇後、1991年のどこかの時点で北尾光司は突然記者会見を開き、今後は武道家として生きてゆくとの宣言を行った。北尾は「空拳道」なる武術を学んだと言い、ノースリーブ空手着を身に纏って摩訶不思議な構えを披露したものだ。諸兄は覚えておられるだろうか、北尾の傍らには空拳道を創始した武術家、大文字三郎が口髭を蓄え佇んでいた。北尾は大文字氏に師事したおかげでそれまでの反抗的態度を改めたという。その言葉通りに北尾は深々と礼をし、人が変わったような殊勝な態度を見せた。そして自分の参戦を受け入れてくれる勇気あるプロレス・格闘技団体を募ったのだった。

この記者会見を、当時オレは週刊プロレスで知った。態度を改めたとはいえ、問題児のイメージが強すぎる北尾にオファーする団体はなかなか現れなかった。プロレスファンはしょっぱい北尾を嫌っていたが、それでもシンプルに「強い」んだろうとは思っていた。しかし、プロレスはシンプルじゃない厄介なジャンルなのだった。

1992年になるとUインターが北尾参戦を受け入れ、山崎一夫戦が実現する。北尾はちょっと反則気味に圧勝し、冒頭に書いた日本武道館での高田延彦戦へと繋がるのである。ただ、ちょっと記憶が曖昧なのだが、山崎戦と高田戦の間に北尾は空拳道つまり大文字三郎氏のもとを離れ、フリーの武道家という立場になっていたと思う。

北尾のその後はともかく、オレの記憶に強烈に残ったのは聞いたこともない「空拳道」なる武術と、怪老人にしか見えない大文字三郎なる人物の姿だ。いったい、空拳道とは実在する武道なのか? 大文字三郎というあまりにフィクショナルな名前のこの人物は何者なのか? どこかのタレント事務所に所属するおじさんなのではあるまいか? 不思議なのは当時のプロレスマスコミからも、後の北尾自身からも、大文字三郎氏についての突っ込んだ記述や発言がオレの知る限りまったくないのである。現在、ネットで調べると大文字三郎はかつてプロカンフーなる興行の選手として活躍したとする記述を見つけられる。「プロカンフー」、またよく知らないものが出てきて当惑するばかりだ。ともあれ、北尾絡みの一件以来オレの胸中では大文字三郎タレント説がじわじわ大きくなっていきつつも、この不思議な人物のことはいつしかだんだん忘れていった。なにしろ僕にも生活があるのです。

そしてあれから四半世紀を経た今(マジで25年経ってしまった)、極めて興味深い書籍を読む機会があったので、格闘ロマンの道を突き進む仮面貴族の諸兄に報告したいと思った次第である。前置き長くてすみません。

須田耕史「空拳の道・大文字三郎伝」は、1988年に上下巻で出版された。著者プロフィールを読むと、この須田さんは熊本県立図書館に勤務する司書(当時)である。なぜこの人が、よりにもよって大文字三郎伝を書いたのかは全然判らない。

口絵写真と、その解説がこれ。

内容はざっと以下の通り。

昭和18年、長崎市に生まれた大文字三郎。母親に背負われていた2才の時、幸運にも辛うじて原爆の閃光から逃れることができた。父は真言宗の雲流寺(調べたが現存しないようだ)の修行僧。厳しく育てられ、剣術と空手を学ぶ。青年期、返還前の沖縄に密航し、沖縄空手(唐手)をマスター。再び密航して鹿児島にたどり着く。九州を徒歩で北上しつつ、空手道場があれば手合わせを申し込み、ことごとく圧勝。全勝のまま福岡に着いた時には、三郎の強さに心酔し着いてきた幾人もの弟子たちがいた。福岡市に念願の道場を開くも、絡んできたヤクザの刃物から友人を守るために闘い、ヤクザを1人殺してしまう。裁判が行われ、過剰防衛との判決ながら執行猶予となる。ほどなく、中国拳法を学ぶために国交回復前の中国へ密航。見込んだ師に入門するが、門下生の少年に生涯初の敗北を喫する。しかし3年で中国拳法をマスター、少年より強くなる。口髭を蓄えて帰国した三郎は空手と中国拳法をミックスさせた新武術「空拳道」を旗揚げ。京都武徳殿で披露し、全国の空手師範の承認を得る。三郎は新たにテコンドーを学ぶため、韓国へ旅立つのであった。

以上のような筋書きに加えて、幼なじみの女性とのプラトニックな恋の顛末、典型的な悪役空手家との沖縄時代からの因縁などが描かれる。

お気づきだろうが、梶原一騎の「空手バカ一代」の影響は絶大だ。こんな本の内容なんて、どこまで本当か判ったもんじゃない。ほぼフィクションと考えていいだろうと思う。しかし、口絵の解説にある「11か所に支部」「9000名の門弟」といった記述までもがフィクションなんだろうか。さすがにそんな即座に検証可能な嘘八百は通用しないのではないか。…いや、しかしインターネットのない1988年、思いっきりウソでも平気で通用したのかもしれないなあ… ネットの発達した2017年でさえ、経歴にフィクションを纏った山師が後を絶たぬ世の中だ。

しかしねえ、これ全部ホントだったらどんなにいいだろうと、わたくしそんなことも考えてしまうんですよねえ… 格闘技通信もない昭和の時代、九州の空手の新流派なんて中央のマスメディアにとっては存在しないも同然、三協映画やクエストのVHSの中にだけ存在する虚実がケイオスと化したファンタジー武術の底知れぬ魅力… しかし、今や世界中に普及してMMAに欠かせないブラジリアン柔術だって、第1回UFCが登場した1993年にはそのようなフィクショナルな存在に見えたものだった、我々の眼力なんてそんなもんなのだということは忘れずにいたいと思うのである。

さて夜な夜なネットで大文字三郎サーフィンを楽しむうちに、ツイッターでこんな情報を知った。

これは是が非でも観ねばなるまい。大文字三郎への旅はまだ続く。