末世に現る 「大仏廻国 The Great Buddha Arrival」

1934年(昭和9年)に公開された映画「大仏廻国 中京編」(監督:枝正義郎)は部分的天然色、スタンダードサイズのトーキー作品だ。戦争で焼けたのか、フィルムは現存しないとされている。いつかどこかで見つかったらいいなと思うが、フィルムの存在は確認されていない。せめて映画を観た人の証言を聞いてみたいものだが、たとえば公開当時20歳でこの映画を観た人は2018年現在では104歳になってるので、なかなか難しいと思われる。

特撮の原点 帰ってきた『大仏廻国』(資料編)

この「大仏廻国」を現代にリメイクしようとするクラウドファンディングを知り、何も考えず即座に3000円を入れたのが去年の5月。このプロジェクトの目標金額は500万円だったが、募集が終了した時点の支援総額が12万9000円。あーこれはダメかな、残念だなあと思っていたところ、どうやら別のクラウドファンディングサイトでの募集がうまくいったようで、めでたく映画は作られた。そして昨日、3000円ぽっちだが出資者であるわたくしは大宮で行われた上映会に行き、2018年の「大仏廻国 The Great Buddha Arrival」を観てきた。


豪華キャスト続々!映画『大仏廻国 The Great Buddha Arrival』予告編2

聞くところでは今回オレが観た作品はまだ決定版ではなく、このような試写を重ねては観客の意見を聞いて再編集、再々編集と直してゆくらしい。最初の試写は12月8日で約75分、観客のご意見を受けて22日バージョンでは大胆に切って約55分とのこと。是非クラウドファンディングのメッセでご意見をどうぞ、と言っていただいたのだけど、ここに感想を書く。本当に申し訳ないが、正直に書く。書く前に大前提をハッキリさせておくが、映画を作るやつが凄いのであって、たかだか3000円出したぐらいで家でゴロゴロしてたら映画ができたらしいので試写に呼んでもらったうえにゴチャゴチャ不平を言うやつが凄くないのである。家で寝てれば楽チンだろうに、自分の名前で莫大なエネルギーを費やし映画を作って広く世に問う、これが立派でなくて何なのだ。そういう立派な「創作者」に向かってオレの如きクズがものを言う以上は、せめて正直であらねばならない。以下は「大仏廻国」 2018年12月22日バージョンの感想。箇条書きで失礼、見当外れならご容赦を。

  • 問題を感じた部分は多かった。最大の問題は、主人公「村田」の造形がボヤけている、というより造形がちゃんとなされていないことだと思う。彼はテレビ番組(地上波からBSCSネット番組までいろいろあるが)を制作するスタッフ、たぶんディレクターなのだが、その番組がどこまでできていて、彼が何をやっていているのかが全然判らない。アバンで、彼は宝田明のコメントを撮る。仕事場のPCで、女性レポーターの映像を観る。このレポートは彼が自分でロケした素材なのか、なにか他の番組の映像なのかが不明瞭だ。前後関係の記憶がちょっと曖昧なのだが、村田がプロデユーサー(大迫一平)に白黒写真を見せて企画を進めようとする場面もある。村田は「大仏が歩いた」事件を取材して、自分のVを作る気があるのだと思う。しかし困ったことに、やる気があるようには見えない。
  • 村田は愛知県東海市聚楽園公園を訪れる。聚楽園駅から出てくる彼の様子からして、ここに来るのははじめてのようだ。この時の村田は小さなショルダーバッグを背負い、ビデオカメラをむき出しで手に持っている(なぜだ)。聚楽園公園を歩く。聚楽園大仏を見て、カメラを構える。そのカメラにはワイヤレスマイクの受信機がついており、しかしキャノン端子はカメラに刺さっておらずブラブラしている(なぜだ)。すぐにカメラを降ろし、RECするでもない。いったい、彼はわざわざ聚楽園に行って何をしておるのだろうか。三脚さえ持ってないのである。取材でもなんでもない。彼が何をどのように作っているどんな男なのかが全然判らないことは、オレには大きなストレスだった。演じた米山冬馬氏は、序盤にブサメンやんけと思ってたら後半どんどん愛嬌ある感じに見えてきて味わい深かったのだけど。
  • 次に気になったのが、ロケーションの貧しさだ。戦前の白黒パートで少しだけ映る室内は、現代の建売住宅にしか見えない。ここは昔ながらの日本家屋であってほしかった。屋外の風景も戦前には見えず、ただの現代の郊外だ。動きのある後半、地理は全然判らなくなる。村田の制作会社が関東のどのへんで、走る土手がどのへんなのか。住宅街や土手も厳しかったが、緑地公園の野っ原はさすがにショボすぎる。東京を歩く大仏の雄大なスケール感とは、イメージが分断されてしまっている。いかにも自主制作映画によくある「そのへんで撮った」感じに見えるのだ。あー、オレが3000円じゃなくて100万円とか支援できていたら、時間と金と手間をかけて探しあてた理想の場所で撮影できたかもしれなかったのに… オレが貧乏なせいで申し訳ない… などと、クラウドファンディング参加者ならではの妙な気分を味わった。だがラストシーンのロケーションは大当たりで、かなり挽回している。
  • 1934年の映画「大仏廻国」を再現した白黒映像はメチャクチャよくできており、目を見張る。また、この映画最大の見せ場、現代の東京を歩く大仏の映像も実に見応えがあった。CGの出来映えはたいへん素晴らしい。それだけに、誰でも気になる大仏の足元を徹底して見せないことには不満が残った。勿論、大仏の遠景に負けないクォリティで足元の映像を作るのは極めて難しいことと思われる。リアリティを失う危険が大きすぎるとの賢明な判断かもしれない。でも挑戦してほしかったな。
  • 後半、宝田明がテーマめいたことを台詞で言ってしまうのは実に気まずい。映画が描くべき現代社会の問題を、スター宝田明の喋りに外部委託してしまった印象だ。しかしそれ以上に、なぜだかよく判らぬうちに世界があのような有様になってしまった状況下で、村田が「数字(視聴率)」に触れたことに、オレ個人は心底がっかりしてしまった。それはモロに俗物の吐く生臭い言葉であって、大仏さまが廻国したことの結果が「数字」では、ホトケさまが泣きはしないか。村田という人間を、とうとう最後まで理解できなかったのが残念だ。たとえば村田が自殺を考えてるような男だとしたら、枝正監督の言葉も胸に響いて腑に落ちるかもしれぬ。しかし、そんな男ではないよなあ… 大仏さまは、歩いてるだけで美しい。理解を超えたものであってくれて構わない。しかし登場人物のことは、理解したかったと思うのだ。
  • 申し訳ないが、ジェット自転車は不要と思う。大仏以外に「普通でないもの」はいらないと思った。
  • 音楽は素晴らしかった。映像や展開と噛みあっていた。

いろいろ文句を並べてしまいましたが、この極めて特異な企画、無茶な挑戦が成功することを願っております。

映画映画ベスト10に参加

下記の企画に参加します。「映画についての映画」、わたくしのベスト10。

映画映画ベストテン - 男の魂に火をつけろ!

1.ミッドナイトクロス(1981年、米、ブライアン・デ・パルマ)

音響効果スタッフ

ミッドナイトクロス -HDリマスター版- [Blu-ray]

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2.ブギーナイツ(1997年、米、ポール・トーマス・アンダーソン)

ポルノ男優

ブギーナイツ [DVD]

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3.食人族(1980年、伊、ルッジェロ・デオダート)

探検隊が残したフィルムをドキュメンタリー映画に仕立てた。と言い張る

4.グッドモーニング・バビロン!(1987年、伊仏米、パオロ&ヴィットリオ・タヴィアーニ)

D・W・グリフィスの時代

グッドモーニング・バビロン!   Blu-ray (2枚組)

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5.死亡遊戯(1978年、香米、ロバート・クローズ)

「ブルース・リーの死」そのものがネタ

死亡遊戯 [Blu-ray]

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6.カイロの紫のバラ(1985年、米、ウディ・アレン)

映画の登場人物が銀幕から出てきた

カイロの紫のバラ(テレビ吹替音声収録版) [DVD]

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7.アメリカの夜(1973年、仏、フランソワ・トリュフォー)

監督が監督役

映画に愛をこめて アメリカの夜 特別版 [WB COLLECTION][AmazonDVDコレクション] [DVD]

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8.アダプテーション(2002年、米、スパイク・ジョーンズ)

脚本を書こうとしてもついオナニーをしてしまう

アダプテーション DTSエディション [DVD]

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9.ファイナル・ガールズ 惨劇のシナリオ(2016年、米、トッド・ストラウス=シュルソン)

若き日の母に映画の中で再会

ファイナル・ガールズ 惨劇のシナリオ [DVD]

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10.マチネー/土曜の午後はキッスで始まる

(1993年、米、ジョー・ダンテ)
映画館でドキドキ

マチネー/土曜の午後はキッスで始まる [Blu-ray]

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番外.ハードコアの夜(1979、米、ポール・シュレイダー)

この映画は一度も観てないので集計に入れなくていいです。お固いおっさんが行方不明になった娘を探していたら、彼女が出演しているポルノ映画を発見。大ショックのおっさんはポルノ業界に潜入し娘を探す… というあらすじ。
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ビデオレンタル黎明期の中学生の頃、家の近くのビデオ屋の棚に並んでいたのだ。「信じたくない!」と頭を抱えているおっさんの写真が妙に面白くて、ビデオ屋に行くたびに必ずこの映画のVHSのパッケージを手にとって眺めていた。でも結局、一度も借りなかったんだよな。いまやオレ自身がおっさんになったんだけど、いまだに観ていない。このベスト10を考えていて思い出したので、そのうち観てみます。

今更ですが「もののけ姫」雑感

もののけ姫 [Blu-ray]

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「もののけ姫」はこうして生まれた。 [DVD]

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「もののけ姫」は1997年の劇場公開時に観てそのド迫力に陶酔しつつ、なんじゃこの難解で空中分解したお話はと驚き、大ヒットしたので更に驚いた。でもよー皆よく判ってなかっただろオレもだけど、と思っている。以後何度も観ているが、観るたびに面白く、新たな発見があり、今ではたいへんな傑作だと思っている。日本テレビの金曜ロードショーで先日放送されたものをまたまた観たので、20年来の感想を記しておこうと思う。コマ切れゆえ、映画の進行に沿った箇条書きで失礼。もうネタバレとか気にしなくていいよな。

  • ナウシカ冒頭の王蟲と同じ呼吸で石垣をブチ破って現れる祟り神。この映画は漫画版ナウシカを完結させた宮崎駿による映画版ナウシカの雪辱戦なので、似たキャラや似た場面が頻出するのだが、いちいちよりハードコアに仕立て直している。
  • 祟り神を止めるまでのアクションが最高に冴えてる。なにしろこの映画はアクションが冴えに冴えている。右腕をやられたアシタカが二射目を放つ直前の、祟り神=イノシシへぐんぐん近づく手書き作画のドリーショットが鳥肌ものの出来。この映画には3DCGの地面にテクスチャー貼ったドリーショットが数回出てくるが、そのどれよりも素晴らしい。
  • 宮崎駿の映画は絵コンテ作業の途中で追いかけるように作画を始めるので、作業的には順撮りに近い筈だ。ゆえに冒頭のアクションは、まだ疲弊してない元気なアニメーターによる渾身の作画を味わえるという寸法だ。そもそもケツを持つ作画監督が安藤雅司、高坂希太郎、近藤喜文というドリームチーム。
  • 物見ヤグラや山の上から見下ろすエミシの村は露骨に「七人の侍」の引用だ。「もののけ姫」は1997年公開。宮崎駿は93年に御殿場で黒澤明と対談しているので、パイセンその節はチーッスというサインなのだろう。
  • このエミシの村、アシタカ以外にはオッサンと老人と少女しか見当たらない。若い男はアシタカひとり。さぞやモテモテなんだろうよ。
  • 小刀で髷を切るアシタカ。公開当時オレが連想したのは、炊事場の包丁で髷を切って大相撲を廃業した力道山だった。断髪が力士としての引退を意味するように、ここでエミシのアシタカヒコは一度死んだと見做される。アシタカは呪われ、髷を落とし、村を追われ、見送りもなし。これが儀式的な「死」だからである。
  • 3万5000年前の原始時代を描いたジーン・アウルの小説「大地の子エイラ」*1の一場面では、ネアンデルタール人の氏族における「死の呪い」が描かれている。重大な禁忌を犯した者は、族長と呪い師から「死」を宣告される。殺しはしない、宣告するだけだ。しかしその瞬間から、すでに彼(彼女)は死んだという扱いになり、見えない霊として認識される。氏族はその者の死を信じこみ、心から悲しみ、嘆く。現実には生きていても、氏族(それは世界のすべてだ)から「存在しないもの」と見做され、無視される者が独力で生き延びられる環境は、原始時代にはほとんど存在しない。「死の呪い」は事実上の死刑として機能する。
  • また、トールキンの「指輪物語」における「死者の道」も連想される。アラソルンの息子アラゴルンは死ぬ覚悟で冥界を通り抜ける。なにしろ「死ぬ目に遭う」のは英雄になるための必要条件だ。
  • それなのになんだなんだ。村を去ろうとするアシタカに、美少女ちゃんが禁を破って駆け寄って目はハートマーク、「お仕置きは受けます!」って美少女に何をスケベな台詞言わせとんねん、まったく呆れたエロジジイである。しかしまあ或いは、これって現代の観客に向けた宮崎駿のサービスなのかもしれぬ。死の呪いとかピンとこない平和ボケのボクチャンでも、村にただひとりのモテモテイケメンがキャッキャウフフのハーレムアニメ的世界から放逐されてつれーわー、オレつれーわー寝てねーわー、これならまんざら理解できなくもない。意識低くてお恥ずかしい。
  • 田舎侍の略奪に出っ喰わし、弓を引いたところ右腕の祟りパワー炸裂で圧勝してしまうアシタカ。観客は俺ツエー、さすがですお兄様! と喜んでもいいのだけれど、実際はアシタカが徐々に人でなくなってゆく過程、怪物化のはじまりであって、不穏極まりない暴力描写だ。侍のひとりがアシタカを見て「鬼だ」って言うでしょう。オレが連想したのは、死ぬ思いでデーモンと合体した不動明だった。悪魔のちから身につけた、正義のヒーローデビルマン(アニメ版)。もののけ姫も「やるなーオヌシ」とか言ってくれる(漫画版)。
  • 市で砂金を見せたアシタカを尾行する追い剥ぎたち。走って追跡を撒くので荒事にはならないのだが、無法の末世といった雰囲気がいい。当たり前に悪意の蔓延る世界を舞台にしている。
  • 雨の峠での、山犬らの襲撃。遠距離を狙い次々と発砲する石火矢のひとつが、雨のためか不発に終わる描写に唸る。アッサリやってるけど、まーアニメ監督が10人いたら9人できない、見事な銃器描写だと思う。
  • 遠くを走る山犬らは実は陽動で、本命の美輪明宏が崖の上から奇襲して大暴れ。しかし女首領はすでにこれを予測しており冷静に撃退。短い戦闘シーンながら双方が手練の宿敵同士であることを十全に表現しており、見事な手際というほかない。
  • もののけ姫=サンを演じる石田ゆり子は正直言って物足りない。大枠はナウシカなんだから島本須美でええやんけと思う。エボシの田中裕子は、さらに物足りない。榊原良子しかいないだろう常識的に考えて…
  • タタラ場。後に祟り神となりエミシの村を襲ったイノシシを、いかに退治したかの武勇伝を楽しげに語る男たち。聞くアシタカはどんどん深刻な顔になる。黒澤明やキューブリックが得意とした対位法だ。宮崎駿はこれを音楽ではなく、男たちの野卑な笑い声や興が乗っての裸踊りを、アシタカの凄惨な内面と対比させる。ちょっと驚くほど高級なことをやっているのだ。実にうまい。
  • タタラ場の男たちはそれぞれに個性豊かだが不細工なオッサンばかりで、アシタカのようなイケメンは全然いない。島本須美もアシタカに「あらいい男」と言っていた。エミシの王子アシタカと底辺労働者では、育ちも違うから顔つきも違うのだ… と、言葉にすれば差別的だが宮崎駿は容赦なく絵で示す。これがリアリティあるんだ。
  • 白拍子、売られた女、癩病患者、たたら製鉄の従事者、天朝の狗。現代のエンターテインメント作品に登場させるには躊躇われがちなモチーフがこれでもかと投入されている。普通の時代劇なら主役を張る武士は、この映画では略奪しか能がないろくでもない連中だ。ある勢力の黒幕は天朝とされる。宮崎駿は天皇FUCKと声高らかにシャウトしているのだ。さすが共産党や。いや共産党より気合入ってるかもしれん。ちなみに高畑勲が「かぐや姫の物語」で描いた天皇はセクハラアゴ野郎だ。お前ら何十億もかけてる映画なのにマジでブレーキ壊れてんな… すげえわ…
  • とはいえ上の段落で書いたようなことは、97年に劇場で観た時には全然思い至らなかった。オレはもの知らぬ若者だった。今やもの知らぬ中年だ。「もののけ姫」は多くの深刻な現代的テーマをブチこんで、それらは解決不能の問題ばかりで、劇中では解決されず、現実でも解決されない。文句あんのかそういうもんだよオメーラそういう世界で生きるんだよと、勇気が出るような出ないような、苦いような渋いような基本的態度。なんだこれヘンテコな映画だなあ。「やろうとしていること」が他の一般的な娯楽映画と違いすぎてて、未だにびっくりするんだよな。
  • 「もののけ姫」は宮崎駿が勉強した教養を全ブッコミしたうえに持ち前の豊かな想像力を縦横にふるった超大作だ。現代を生きるスーファミ世代のわたくしが一見で理解できるわけがない。何度も観て理解を深めてこそ面白くなる類の映画だ。宮崎駿も教養をひけらかす照れからか、知識がないと難しいモチーフでもろくに説明しない。説明は品格を損ねる、これぐらいわかれよと仰る。わからん。この「説明しない」悪癖が、「もののけ姫」以降の宮崎作品を難解なものにしている。
  • サンのタタラ場襲撃からアシタカのデビルマン覚醒と撤退は、またまた痺れるアクションの釣瓶打ちだ。緩急の間がいいんだよな、息を呑む。それからこの映画、セリフがとてもいい。いいセリフ率が高い。「そなたの中には夜叉がいる」なんてカッチョイイ台詞を、いちばんヤバい祟り神をしょった半分怪物のアシタカが言うから効くんだよな。
  • アシタカと美輪明宏の対話。ここもセリフがいい。「私はここで朽ちてゆく体と森の悲鳴に耳を傾けながら、あの女を待っている。あいつの頭を噛み砕く瞬間を夢見ながら」 美しい。
  • 山犬たちと別れ、雨と霧の中を鹿に乗って進むアシタカ。と、あっという間に雨がやみ晴れ間が顔を覗かせる。と思えばすぐに雨になり、霧の中だ。遠く爆音を聞き、サンを思う。再び視界が開けると、戦場になったタタラ場が見える。不安定な天候をセリフ無しでたっぷり1分強(それでもたった1分強)を使って見せるこの場面、劇場での初見時からオレ大好きなんだよなあ。こういうのがあるから豊かな映画なんだと思うのだ。「もののけ姫」を尺に収めるために宮崎駿は苦しんだと聞く。この場面、よくぞ切らずに残してくれたものだと思う。
  • 以後のアシタカの右往左往のエンドレスアクションは眼福で、ひたすら駆けずり回るアシタカさんはお疲れ様なことである。アシタカが乗る鹿が四騎の追手から逃げる途中、立ち止まってその場でぐるりと回ってどうどう、なんて描くのクソめんどくさそうな芝居がゴージャスすぎて凄い。追手の放った矢で頭巾が外れてイケメン丸出しになる設計もうまい。アシタカは超人的能力で追手を仕留めるのだが、もうこのへんになると講談の名人が乗りに乗ってアドリブかましてるみたいで呆気にとられるばかりだ。焼かれる死体の山は「炎628」からの引用だろうか。独ソ戦マニアだもんな。
  • 神殺しのあと、タタラ場から見て山の稜線からヌッと出てくる巨神兵。本多猪四郎の「ゴジラ」です。タタラ場を襲う巨神兵のドロドロは「マックイーンの絶対の危機」や「ブロブ/宇宙からの不明物体」みたいに見えるが、実のところあのドロドロは宮崎駿の内面から出てきたものだろう。以降の作品でも、宮崎駿は隙を見てはすぐドロドロするようになる。ぼくはドロドロは好きじゃない。
  • 大いに不満なのは終わり方だ。もうあからさまに「あー疲れた、はい、シメますよ」という感じで久石譲の音楽は露骨に押しつけがましくなり、ザコの牛飼いや天皇の狗の坊主が「シメ用のコメント」を発し、クシャナはいきなりいい人っぽく取り繕って(嘘に決まってんだろあんなもん)、挙句に小さい妖精のラストカット、なんじゃこれ「いつものやつ」じゃねえか。この投げやりな「ほれ一丁あがり」感が耐え難い。もう明らかに宮崎駿が力尽きてんだよな。ハードコアが急にお子様ランチになるんだ。
  • エンドクレジットで流れる主題歌はとてもいいんだけど、直前の投げやりなシメかたのせいで弱く感じる。
  • あ、それからタイトルもひどいと思う。もののけ姫は主人公ではない。

*1:「エイラ」6部作の感想:http://pencroft.hatenablog.com/entry/20140517/p1

本当の話をしよう 「若おかみは小学生!」

立川で映画版「若おかみは小学生!」を観てきた。これは原作は児童文学のヒットシリーズで、20巻も刊行されているらしい。オレは知らなかった。このアニメの存在を知ったのは、あの児童文学がテレビアニメ化&映画化されますよ、というネットニュースだった。公式サイトを見て、映画版の監督が高坂希太郎であると知った。中編「茄子 アンダルシアの夏」などの監督で、自身も自転車乗りで、何よりも凄腕のアニメーターである。フーンと思いながら公式サイトの監督コメントを読んでみて、そこではじめてギョギョギョとなったのだ。

この映画の要諦は「自分探し」という、自我が肥大化した挙句の迷妄期の話では無く、その先にある「滅私」或いは仏教の「人の形成は五蘊の関係性に依る」、マルクスの言う「上部構造は(人の意識)は下部構造(その時の社会)が創る」を如何に描くかにある。
(監督コメント抜粋)

「おお!ことばの意味はわからんがとにかくすごい自信だ!」ではないが、監督のこの異常な本気、要するに狂気に、強く惹かれたのであった。

テレビ版「若おかみは小学生!」も観ているが、充分に良質なアニメである。そして予告などで観る映画版の映像はグッと密度が濃く、よく動く緻密で精妙な作画が印象的だった。オレはここに「本物の匂い」を感じた。

オレが映画を観る前から「本物の匂い」を感じることは稀なんだけど、今まではだいたい当たってきたと思っている。まあ「これオレ好きそう!」、観てみたら「やっぱり好き!」ってだけのことなので、大した話ではないのだけど。以下感想、少々ネタバレあり。

女児向けアニメゆえなのか尺が短く、もう10分あげたかった。鬼気迫る偏執狂的な美術と作画が、おっこや幽霊たちに実写以上の身体性と実在感を与えている。春の屋に泊まってみたい、そう思わせるだけでも驚異的なアニメだと思う。 (★4)

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はてなダイアリーからはてなブログへ

はてなダイアリーが終了するそうなので、石もて追われて引っ越してきました。内容はダイアリーのままなので、リンクなどでおかしな部分もあるのかもしれませんが、直すのもキリがないのでもう気にしないことにしました。今後ともよろしく。

フィクションにおける「思う壺」問題について

小説マンガ映画にアニメ、テレビドラマはほとんど観ないが、わたくしが摂取するフィクションのおよそすべてにおいて気にしているというか、考えてしまうというか、どうにも気になってしまうある基準が自分の中にある。それはここ十数年でだんだんハッキリしてきたものだ。この折にそのことを書こうと思うのだけど、今これを読んでいるそこのあなた、あなたはそんな知らんおっさんのどうでもいい内心など興味ないと思われることでしょう。それも当然だ、読まなきゃいい。でも書くのだ。

簡単に言えば、フィクションの中で(多くの場合)肩入れすべき主人公格の人物が、他者の「思う壺」になっているさまを見ると気になる、イライラする、時に作品自体を嫌いになる、まれに作者まで嫌いになる、ということがオレにはよくあるのだ。「思う壺」を「良しとする」作品を、好きになれないのだ。

記憶の中で最初にそう思ったのは1987年、中学生の頃に観た映画「アンタッチャブル」だったと思う。みんな大好きオレも大好きブライアン・デ・パルマ監督の、超カッコイイ映画である。しかし当時のオレには少々腑に落ちない違和感があった。もちろん中学生のわたくしなんてもう完全にクルクルパーだったからその理由はよく判らなかったんだけど、今なら判る。主人公エリオット・ネスの生きかたが気に入らなかったのだ。

ご存知だろうが「アンタッチャブル」は禁酒法時代、密造酒で儲けていたアル・カポネをとっ捕まえるお話だ。しかしよく考えなくても、禁酒法なんて悪法も悪法である。ネスは財務省の役人で、禁酒法がクソであると知りつつ「これは国の法律だ」と言いながら密造人や密売人をしょっぴこうとする。映画の結末、禁酒法が廃止になると記者に聞いたネスは「一杯やるよ」と答える。こいつは禁酒法をどう考えているのだろう、この男が拠って立つ正義はいったいどこにあるのかと中学生のオレはうっすら思い、しかしうまく言葉にできなかった。

ネスの中には信じる正義もなければ、自分だけの動機も、やむにやまれぬ衝動も在りはしないのだ。自分の生きかたを法律に丸投げし、人間の精神を放棄した犬なのだ。考えることを辞めた豚なのだ。こんなロボット小役人、まったくもって国家権力の「思う壺」なのである。禁酒法があるから酒はダメ。禁酒法がないなら飲みまひょか。コンニャク、コウモリ野郎、手のひら返し、権力の奴隷。こんな野郎は許せねえ気に入らねえ、ブン殴ってやる! というようなことをオレは映画を観た後、数年がかりでジワジワと理解した。一方、悪役のアル・カポネは誰の「思う壺」にもならない。徹底して自分のルールで生きている。この映画の真のヒーローは断然アル・カポネだ。オペラに感動して涙を流す、感受性豊かで真心あふれる男なのだ。気に喰わんやつはバットで撲殺、あしたはホームランや!

ちなみに今のオレはこれほど極端な意見ではない。劇中にはネスが法を踏み越える場面(フランク・ニティ殺害)もあるし、それほど一面的な映画だとは思ってない。ただ妙に印象に残る不思議な作品、いろいろヘンな映画だったなーと思っている。まあそれはそれとして、主人公が他者の「思う壺」になっているならば、もう物語そのものが信用ならねえんだ。ついていく気を失くしちまうんだ。そんな気分は年々強くなってきて、自分の中に一定の割合を占めるようになった。

近年、特に「思う壺」すぎてこりゃあ全然ダメだと思ったのがアニメーション映画「心が叫びたがってるんだ。」である。この映画に登場する青少年はどいつもこいつも大人の「思う壺」で、オレなんか自宅でのDVD鑑賞だったこともあり思わず「思う壺やないかーい」と声に出してしまったほどだ。連中、いらんことをやらされていることに疑問を持たなさすぎなのだ。学校や教員からすりゃあ、極めて扱いやすいガキどもであろう。青春映画の形をとっているものの、ここで描かれているのは大人の「思う壺」の範囲を決してはみ出さない「青春」なのだ。気に入らねえ、まったく気に入らねえ。ペッペッ。

少年少女を扱うことの多い媒体であるマンガやアニメでは、学校・部活・教員の「思う壺」になっている若者を頻繁に見かけることになる。「思う壺」になっていること自体に気づかず、青春してると思い込んでて、まあそれも君たちなりの青春なんだろうけど、ぼかー願い下げだなーと思うことが多い。中でも部活動なんて酷い。オレなんかそもそもなぜ学校教育に部活動というものが存在するのか、意味が判らない。納得できる説明を聞いたことがない。

京都アニメーションの超絶美麗アニメ「響け!ユーフォニアム」第1期第2話には、年度アタマに吹奏楽部にやってきた陰湿なメガネ顧問が右も左も判らぬ生徒たちを誘導してまんまとカタに嵌める場面がある。生徒らが顧問に感じた戸惑いや反感は話数が進むにつれてみるみるなかったことになり、生徒たちは顧問の言うことを盲目的に信じこみ、ひたすらコンクールを勝ち抜くことが唯一絶対の価値なのである、それしかないのであるという「常識」が共有されてゆく。なるほどこれが顧問センスというやつか。実に気に入らねえ、いたく気に入らねえ。しかしこれが部活動の本質に触れた描写であることは明白だ。

人間をブリンカー(遮眼革)をつけた競走馬扱いする斯様ななりゆきは、なにもこのアニメだけのことではなくて、これは「教育」という営みがどうしても持たざるを得ないダークサイド、コインの裏側なのだと言うこともできる。中でも存在意義すらよく判らぬこの部活動という土人の宗教は、このダークサイドを煮詰めた地獄に陥りやすい。少女マンガの「青空エール」(青空エール コミック 1-19巻セット (マーガレットコミックス))とかねえ、ぼくはホントどうかと思ったな。余計なお世話ながら、君たちもう少しこの世の仕組みを疑ったらどうかねと言いたくなった。

一方で、たとえば梶原一騎のマンガ「巨人の星」はいまだ世間的には根性至上主義のアナクロニズム、理不尽極まりないスパルタ教育礼賛マンガだと思われている節がある。これは実に浅はかな解釈と言わざるを得ない。「巨人の星」とは日本の敗戦をモデルとして、失敗した教育の犠牲となった若人の魂の彷徨を描いた悲劇なのである。とりわけ凄まじいと感じたのが星飛雄馬アームストロング・オズマの会話だ。2体の野球ロボットがいかに人生のすべてを野球だけに捧げてしまったか、どれほど他者の「思う壺」になって生きてしまったかを確認しあう、地獄の底から響いてくるような鬼気迫るやりとりだった。


このあと飛雄馬は歪んだ教育のために失われた自分の青春を、日高美奈との出会いと別れを経験することでついに獲得するのだ。それにしてもこのような視点を内包するスポーツマンガを、梶原一騎はなんと1960年代後半に発表していたのだから異常な先進性だ。これほど誤解され、侮られている作家も珍しい。今すぐノーベル賞を授与すべきだ。

黒澤明の映画「姿三四郎」では、教育の理想が描かれる。師の矢野正五郎に戒められた三四郎が池に飛び込み、杭にしがみつく。池に浸かって夜を明かした三四郎は、夜明けに開いた蓮の花を目撃する。無垢の美しさに心を奪われた三四郎が「先生!」と叫ぶ。即座に座敷の障子がバーン! と開き、矢野正五郎や兄弟子、和尚が縁側に飛び出してくる。

ポイントはふたつあり、まず蓮の花は、師が用意したものではなく三四郎が勝手に見つけたものだということ。矢野正五郎は、なんら恣意的な誘導をしていない。池に飛び込んだのも三四郎なら、蓮の花を見出したのも三四郎だ。ゆえにその感動は自分だけのものであり、終生忘れることがない。次に、三四郎の叫びに応じて障子が即座に開いたという事実。要するに矢野正五郎は弟子の身を案じ、明け方まで眠らずにずっと起きていたのだ。安易な手助けはせず、弟子が自分で悟るのを辛抱強く待っていた。なんという愛情だろうか。オレは驚愕した。三四郎にとって矢野正五郎は、生涯に一度しか出会えない師だったのだ。この師弟の美しさを、しかしこの映画は言葉や台詞では一言も説明せず、ただ映像で見せるのみ。「教育」も描きようによって、これほど美しいものになりうる。それは、ここに他者の「思う壺」の入り込む余地がないからだ。

他者の「思う壺」に嵌まらない自由な若者を描く今どきのアニメも、もちろんある。今年のはじめに放送された「宇宙よりも遠い場所」では、主役の4人の女子高生が、くだらない世間や学校の思惑から大きくはみ出る旅に出る。これ見よがしに反抗するでもなく、ただ目線の高さ、志のスケールの差で鮮やかに飛び越えてみせるのがいかにも現代的だった。ハナから学校なんぞに何も期待していないのが清々しい。わたくしの如きおっさんはすぐ青春の殺人者と化してテロリズム敢行、バットで撲殺しか思いつかないもんだから、「宇宙よりも遠い場所」には本当に心洗われたものでしたよ。

アニメ「BANANA FISH」とわたくし

「BANANA FISH」というマンガ、世評は高く傑作とされており、大ファンだと公言する友人もいて、フーンそうなんだ、いっぺん読んでみようかなと思って実際に読みかけて、数十頁くらい読んだら興味をなくして読むのをやめる、ということがわたくし過去に3回くらいあった。好きも嫌いもないけれど、なんとなく相性が悪い。なぜだかどうも興味が持てない。そういう作品も、たまには存在するものだ。ちなみに同じ作者の「海街dairy」は、まだ完結してないけど好きだ。とてもいいマンガだと思う。実写映画版はあまり気に喰わない。(ついこないだ完結したらしい。知らなかった)

BANANA FISH Blu-ray Disc BOX 1(完全生産限定版)

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さてそのような「BANANA FISH」がフジテレビノイタミナ枠でアニメ化、制作はMAPPA。上記のような私的な因縁があり、しかし傑作と世評の固まっている作品、この機会に観てみようと思った。設定を現代にすることに対する原作ファンの悲鳴と怒号はweb上で観測していたが、オレはこのマンガに思い入れがあるわけじゃなし、なにしろそもそも読んでないし、お話を把握するくらいはできるだろうと踏んでいたのだ。で、第1話を観たわたくしのツイートがこれ。




まーよくある拳銃ヘッポコ描写への、まーよくあるツッコミです。アニメ「BANANA FISH」の監督はかつて京都アニメーションでイケメン水芸アニメとか作ってた女性で、あんまり銃とか興味なさそうな感じだ。このアニメを観た人なら誰でも呟きそうなこの軽口がなぜかどんどんリツイートされ、その数が100や200を超えたところでわたくしもビビってたじろいだ。言うてもまだこのアニメは放送が始まったばかり、この時期に悪い評判をたてるのは本意ではない。不出来なクソアニメなら、他に幾らでもある(悲しいかなホントに幾らでもある)。これはむしろ、「出来がいいアニメの中に」このような描写が含まれていたために目立った違和感だ。

上記のツイート、上2つは一昨日深夜と今朝のものだが、今日の夜になってもまだRT通知音がヘホーン、ヘホーンと鳴りやまない(TwitterクライアントのJanetterをそのように設定していたので)。こうなるとあとはもう自動的に増えていくだけ、もともとはガンマニアでもないオレが発したしょうもないツイートが、いまやナウシカ原作版の粘菌のようにweb上に拡散してしまった。この群体レギオンは、制作スタッフの方々の目にも入ることだろう。申し訳ない気持ちだ。とはいえ、この描写をきっかけにまたしてもオレは「BANANA FISH」に冷め、REC予約を削除する程度には興味をなくしてしまった。そういうこともあります。そういうこともある。

追記

Twitterでもブクマでも「アイソセレススタンス」について何度か指摘されているが、どうぞアニメ観てくださいとしか言いようがない。この場面が近接戦ではなく動く目標への遠距離射撃だということと、目標の車には金髪の弟分みたいな少年が乗っており(あと巻き込まれた日本人も)誤射が許されぬ状況であるということ。そんな難しい射撃を拳銃でやっちゃう肚の据わった凄腕兄ちゃん、という場面なんだから両目照準は演出としてどうなんかなーと。こいつ弟分の命はどうでもええんかなと思われかねない描写だと思う。射撃術が間違ってると言ってるんじゃなくて、演出が間違ってるんじゃないの、という話。よろしくご理解を。

「ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク」とスピルバーグとぼく

昨晩金ローでやった「ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク」を観た。先日の高畑勲作品といい、こいつ金ローばかり観てやがるなと思われても仕方ないし、まあそうなんだけど、これはたまたまであって、テレ東の午後ローとかも観ています。以下「ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク」の感想。当時の劇場では観ておらず、初見はVHSソフトだったので、2度目の鑑賞。

唯一心を奪われたのが、ビデオレンタル屋の店内にバスが突っ込んでくるカット。バスからギリギリ逃げる客たちが凄いスタントだと思ったのだが、これもCG使ってんのかな。 ★1


バカとバカとバカと大量のバカしか出てこないため誰にも肩入れできぬばかりか終始イライラさせられる本作は、マイケル・クライトンの原作小説と脚本参加を待たずにデヴィッド・コープが単独で勝手に書いた知能指数ゼロの脚本を、ティラノサウルス本土上陸を撮れることに目がくらんだスピルバーグが何も考えずに早撮りしたものだ。


これによって判ることは、クライトンが娯楽小説の中で曲がりなりにも表現しようとした科学への疑念や生命倫理といったテーマをスピルバーグは何ひとつ理解しておらぬばかりか興味も一切なくて、前作のそういった部分はただ脚本通りに撮っただけで、本当に興味あったのは恐竜の挙動とダメオヤジの成長、本質からズレたどうでもいいサスペンスごっこのみにすぎなかったということだ。


我々は、スピルバーグさんのこういうアレなところを理解してあげなくてはならない。『激突!』も『ジョーズ』も、そういう子供じみたスピルバーグだから作ることができた傑作だった。つまりクライトンの着想と作劇を借りた前作『ジュラシック・パーク』よりも本作『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク』こそが、スピルバーグの本質的な作家性があらわれたド真ん中の作品なのだ。誰だって、そうは思いたくないよな。オレも思いたくないよ。しかしスピルバーグが徹底してディレクター=演出家であって、ストーリーテラー=脚本家ではない、ということなら同意いただけると思う。


それにしても我々の愛する娯楽映画の申し子スピルバーグが、連結型キャンピングカーが崖から落ちるかどうかドキドキですね! と頑なに言い張るズレたオッサンであることを認めるのは辛いことだ。しかしインディ・ジョーンズ映画なんて全部ズレたドキドキで構成されたカラッポ映画で、そうと薄々知りつつみんな喜んでたんだから、この辛さは引き受けなくてはならないよな。


我々の世代の巨匠スティーブン・スピルバーグさん、お好きな方は多いだろうが、わたくし個人は「オレはスピルバーグが好きなんスよォー、大好きッ!」とは全然思っていない。本気で死ぬほど好きなのは「激突!」と「ジョーズ」のみで、大きな声では言えないけどかなり好きなのは「1941」だが、他はそうでもない。「プライベート・ライアン」を、もう一度観てみなくてはと思っているくらいだ。インディ・ジョーンズは全部嫌いだ。「E.T.」は最も重要な映画と思うが、好きかといえばこれも違う。頭いい路線は、すべて信用していない。


製作作品なのであんまり関係ないが、みんな大好き「グーニーズ」もオレの大嫌いな映画のひとつだ。12歳当時劇場で観て、オレをバカにしてんのかと呆然としたものだ。いまだに同世代の映画好きが「グーニーズ」を好意的に語るたび、居心地の悪さを勝手に感じている。しかし今にして思えばあれは製作スピルバーグの映画でも監督リチャード・ドナーの映画でもなく、脚本クリス・コロンバスの映画ですわな。


スピルバーグの功はたくさんの人が語っているので、ここでは罪のほうを書いておきたい。上記ジュラ2の感想でも書いたような、本筋に関係ないどうでもいいサスペンスを尺かけて長々と展開するという恥知らずな映画作りを始めたのは、他でもないスピルバーグだと思うのだ。ジュラ2より遥かにマシだった前作「ジュラシック・パーク」においてさえ、樹の上から車が落っこちてくる、あぶなアーい! という、クッソどうでもいいサスペンス場面があった。本筋とも観客の興味とも何ら関係ないため、実はサスペンスとして成立さえしていない。出来損ないのイベントを脈絡なく「置きに行く」ようなこういう展開を、なぜかスピルバーグは好んで作る。インディ・ジョーンズは全部これ。そして凡庸な作り手たちほど非常にこれをよく真似するために、この悪癖はアメリカ娯楽映画にひとつの潮流を作り、全体のレベルを下げたと言ってもいいと思う。ジェームズ・キャメロンのような腕の立つ作家は、絶対にこんなことはやらない。


スピルバーグもいつか死んで、その時はみんな手放しで誉め讃えるのだろう。映画の申し子、映画の神様、映画の良心とさえ言われるだろう。本当に死んだらこの記事のようなことが言いにくくなるので、彼が死ぬ前に書いておいた。そういうことです。

高畑勲作品を2本、テレビで再見

2018年4月5日に高畑勲が亡くなった。正直言って、超悲しいですぼく泣いちゃいます、とは全然思わなかった。そうか死んだのかあ、と思っただけだ。その死をまっとうに悲しむには、オレにとって高畑勲は怪物すぎた。

東大仏文科卒のスーパーエリート高畑勲は思想の人で、豚であるところの大衆、つまり我々度し難き愚民を水槽に入れて観察し、その研究と描写に生涯を費やした人という印象がある。たぶん高畑勲個人はいい人だと思うのだけど、創作では客観的で突き放した、圧倒的に冷徹な作品を作る。

4月13日、日テレは緊急追悼で「火垂るの墓」を放送した。RECしといて、後日久しぶりに観た。公開時に「となりのトトロ」との二本立てを劇場で観て、VHSのビデオソフトで観て、テレビ放送も1回は観たと思うので、たぶん4回目か5回目の鑑賞だ。

公開当時、野菜泥棒した清太を百姓が殴る場面は未完成で、無着色の線画のままだった。高校1年だったオレは「斬新な演出! さすが高畑!」と感心し、まさに高畑勲に叱られても仕方ない明き盲っぷりを露呈した。それでもいわゆる単純な反戦映画ではないことは、2回目くらいの鑑賞で判っていたと思う。

今回観てみて驚愕したのが、清太が節子に恋人や母親の役を投影し、近親相姦願望を持っていたことを明確に描いている点だった。節子の死後、清太の幻想として描かれる一連のアイドルビデオみたいな場面が凄い。おヌードは勿論、ふりむいて笑顔とか、針仕事=世話焼き=甘やかしプレイとか、敬礼(ミンメイ!)とかひと通りやってみせる。ゾッとするほかない。

「節子は私の母になってくれたかもしれない女性だ!」 とくれば、これは完全にシャア・アズナブルである。まさか神戸弁の中学生と、宇宙翔ける赤い彗星が重なるとは思わなんだ。

節子自身は幼女なので、普通に母を求めて泣く。だが母の無惨な姿を目撃DQNしてしまった清太からは母を慕う気持ちが消え失せてしまい、その代償に節子にとことんのめり込んでいく。この感じが本当に危ない。そこに節子の意志はもはや存在せず、清太は恋人や母親の依代、偶像、人形として節子を愛でてしまう。押井守の「イノセンス」より16年早い。

きれいに死んだ節子を、腐敗する前=母のように醜くなる前に速攻で焼く清太が涙ひとつみせないこのブッ壊れた感じ、マジでイカレてる。本当にヤバイ怖い映画が何かの間違いでテレビで放送されていて、しかし日本中みんな感動して泣いているのだ。なんだこれすげえ。宮崎駿が悪魔と契約した表現者なら、高畑勲は表現の悪魔そのものだ。

5月15日には三鷹ジブリ美術館高畑勲のお別れ会があり、宮崎駿が涙ながらに読んだ弔事ならぬ開会の辞、その内容を報道で知り、動画も見た。オレは冷たい人間なので、フーンなるほど、そうかー。と思っただけだ。

追悼気分さめやらぬ5月18日、日テレは「かぐや姫の物語」を放送した。これもRECしといて、後日観た。劇場2回とDVD以来、4度めくらいの鑑賞だ。

かぐや姫の物語」公開時、印象深い感想のひとつが雨宮まみさんの記事だった。

『かぐや姫の物語』の、女の物語 戦場のガールズ・ライフ

不思議な縁で一度だけ、生前の雨宮さんと同席する機会があった。きれいな、花のような人だと思った。正直言って雨宮さんや女性の多くがいかに生き辛く、どれほど抑圧されているのか、がさつなおっさんのオレには想像すれども本当のところはよく判らない。それでも、この感想には胸を衝かれた気がしたものだ。まあそれはそれとして、オレはオレのがさつな感想を書くしかない。

以前書いた感想はこれ。
観たぜ「かぐや姫の物語」 挑戦者ストロング
「かぐや姫の物語」 追記 挑戦者ストロング

今回の放送を観て、発見がひとつあった。映画の後半、かぐや姫が月に帰らねばならぬとなった後、屋敷の中の作業小屋でわらべ唄の続きを唄う場面。ここに妙なインサート映像が3カット入るのだ。まず夕焼けの海と陸、雁の群れ。次は海辺を空撮でトラックバック、駆けてきた男と幼子が波打ち際で立ち止まる。最後は海辺に立つ松の木の下で、月を見つめる男と子供(2カット目より少し大きいようだ)。

 
 

劇場での初見時にはなーんだ妙なカラオケ映像だな程度の印象で全然気にしてなかったのだけど、今回観てびっくりした。松があるのは松の原、つまり三保の松原、ということはこれって「羽衣伝説」の結末を描いてるんじゃないのか。2カット目は地上を離れ天に去る天女の俯瞰視点で、砂浜を走って見送る夫の漁師と我が子の姿を。3カット目は天女が去った後、かあちゃんを思って月を見つめる父子の姿。ま、羽衣伝説のストーリーは常識だろうからここでは説明しない。Wikipediaの「三保の松原」の項には、上記インサート映像1カット目とほとんど同じ構図の写真が載っているので参照されたい。

オレは昔、能の「羽衣」を観たことがある。観世流だった。この「羽衣」では天女は漁師からすぐ羽衣を返してもらい、その場で天女の舞を踊る。幽玄なる舞に漁師と我々が陶酔するうちに、天女は天に帰ってしまう。「E.T.」を色っぽくしたようなお話だった。そういえば、手塚治虫の「火の鳥」にも羽衣編というのがあった。舞台劇をそのまま漫画にしたような実験的なやつで、あまり好きじゃなかったが。

さてアニメに戻ると、唄い終えたかぐや姫は嫗にこう言うのだ。

「遠い昔、この地から帰ってきた人がこの唄を口ずさむのを、月の都で聞いたのです」
「月の羽衣をまとうと、この地の記憶は全てなくしてしまいます」

マジか。「羽衣」の天女は、かぐや姫のパイセンだったのだ。「羽衣」はいつの話なんだかよく判らなかったんだけど、さっきネットで調べたら奈良時代に編まれた「風土記(古風土記)」によるものらしい。この映画は劇中設定を平安時代としているから、時系列上も確かにパイセンなのである。

つまり高畑勲のヨタ話はこういうことだ。「羽衣」の天女は月から奈良時代の地上にやってきた。この天女はあろうことか地上で愚民と結ばれ子をなしたので、事態を重く見た月世界当局は天女を本国へ強制送還し、記憶を奪ってしまった。天女が覚えているのは、地上のわらべ唄のみ。その不思議なわらべ唄を聞いてしまった月人の少女は生命の坩堝たる地球に憧れちゃって仕方なく、決死のテロリズム精神で大気圏単独突入。平安時代の竹林に落っこちて、翁に拾われた。羽衣伝説と竹取物語を股にかけた、壮大なクロスオーバー作品。今川泰宏監督の「ジャイアントロボ THE ANIMATION 地球が静止する日」かよ。

そうと判れば、月に赤ん坊の姿が重なるラストカットの説明もつく。あれは地上におけるかぐや姫の幼少の姿の回想かと思ってたが、そうであれば月と重なるのは具合が悪くて変なのだ。あれは、姫がこれから生む赤子の(未来の)姿なのだ。なにしろ姫は、地上のマイルドヤンキー捨丸兄ちゃんと空中セックスして身ごもっている。生まれてくる赤子は成長し、地上のすべてを忘れた母こと元かぐや姫がブッ壊れたレコードプレイヤーのように唄うわらべ唄に魅了され、いつの日か地上にやってくるのだろう。歴史は繰り返す。赤子の性別は判らないので、今度はどの昔話に登場するキャラクターになるのやら、想像もつかない。海に落ちて竜宮城の乙姫になるか、スケール間違えて一寸法師になるか。これが高畑勲の、まんが日本昔ばなしスーパースター列伝構想なんだよ! な、何だってェー! 高畑監督、さようなら。

追記

オレは「かぐや姫の物語」で大嫌いな場面があって、それは何かといえば捨丸パイセンと空飛ぶ場面だ。背景を3DCGで処理しており、クソつまらないこと甚だしい。高畑勲らしからぬ、明らかな手抜きだと思うのだ。ここは絶対全作画で描くべきだった。パースが狂ってもいいんです。それが味ってもんです。たとえば海外アニメには「スノウマン」という佳作もあり、高畑勲が知らぬわけはないのだが。

スピルバーグ翁と遊ぼう 「レディ・プレイヤー1」

公開初日に「レディ・プレイヤー1」を観てきた。前座に「パシフィック・リム:アップライジング」を観たのだけどこれがダラダラ冗長な映画でガッカリしたので、直後に観た「レディ・プレイヤー1」は非常に楽しめたよ。

以下感想ですが、決定的なネタバレを含むので未見の方は絶対に読まないように。予告編にも一切出てない大ネタがあります。

スピルバーグは地球に残る人 (★3)

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同情の拍手はいらない 「シェイプ・オブ・ウォーター」

アカデミー賞が発表されたから、というわけでもないのだけど「シェイプ・オブ・ウォーター」を観てきました。あんまり気に入らないんだろうなという事前の予想が当たってしまった。以下の感想では結構悪口書いてますが、まあアカデミー賞とったんだからいいだろう。ネタバレありますのでご注意を。

よせ、野暮になる。(★2)

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