いらいら気分 くさくさ気分

pencroft.hatenablog.com

以前ここに書いた通り、当初よりオレは東京五輪に反対で、東京から四国に移り住んだ今でもやめてけれゲバゲバと思っている。そしてオレの気分とは関係なく2020年2月以降、世界中で新型コロナウイルスが蔓延すると、東京五輪を「中止」あるいは「延期」にすべきという声が囁かれ始めた。

オレは延期はイヤだな消滅がいいなと思っているが、そもそも疫病による五輪中止など予想もしていなかったし、無意識的に望んでいたわけでもなかった。疫病なんか流行らぬ方がいいに決まってる。「もののけ姫」ではないがオウム事件しかり大震災しかり、まったく破滅というものは思いもよらぬ方向からやってくるものだ。ここで「コロナウイルスは人類への天罰」などと言えば石原慎太郎ごっこができるわけだ。

オレは疫病など関係なく、ただ普通に五輪を中止すべきと思っていた。その理由は「醜い」という一点に尽きる。ここまで東京五輪に関して、美しい話などひとつもなかった。ちょっと思いつくまま並べてみようか。

招致のための賄賂。招致決定の瞬間、招致委員会どもの醜悪なバカ騒ぎ。「世界一金のかからない五輪」という嘘。「福島原発はコントロールされている」という大嘘。病的な嘘つきの安倍晋三がマリオのコスプレ。博報堂のサノケン坊やによる盗作エンブレムがお仲間だらけの審査委員会によって一度は公式エンブレムに選出されたという事実。便座みたいな国立競技場の建設を急がせたために現場監督が失踪ののち自殺(遺族が死ぬまで恩給を給付しろ)。ショボい設備の選手村(ホントに「村」だと思って作ってんだな)。IOCに強制的に変更されるまで、焦熱地獄の東京でマラソンさせようとしていた事実。台場の糞尿水にトライアスロンの選手を放り込んで遠泳させようとしている事実。暑さ対策のために朝顔を並べようとしている事実。電通は死ぬほど儲かるのにボランティアは無給。その電通による国家総動員法的なプロパガンダ。やっぱり大会組織委員会に紛れこんでいる秋元康。開会式と閉会式を仕切るのが山崎貴というギャグ。無能な小池百合子。知らんぷりの猪瀬直樹。ボケたフリする石原慎太郎。なかなか死なない森喜朗。

これだけ並べられても「いやあ東京五輪楽しみですね!」と言えるような強靭なメンタルが僕にもあったらなーと時折思わないでもないが、幸いにしてそれほどの恥知らずにはなれそうもない。コロナウイルスがあろうとなかろうと、東京五輪などやるべきではないのである。

今のところ、ウンコ色した為政者たちは東京五輪やるんだという態度を崩していない。ま、そんなもんだ。K-1が潰れる直前まで谷川貞治は「K-1絶好調ですよお」という態度を崩さなかったものだ。出資者へ向けたポーズとしてそのような態度が必要なのかもしれぬ。国や都からは言い出せず、IOCの決断をバカみたいに待ってるのかもしれない。しかし当初の予定と寸分違わぬ形で本当に五輪を開催するとしたらこれはくるくるパーの所業であるし、そもそも不可能であろうと思う。とにかく「五輪やる」という嘘が世間にまかり通っている現状にオレは苛立っている。世の中、五輪以外でも嘘ばかりがまかり通っていて本当に気分が腐る。この真実のない世の中… わたしはその中で木村先輩が真実 力道山を凌ぐ実力者であるならば その真実が勝つべきだ! 真の実力者が英雄となるべきだっ… と信ずるだけです!(「空手バカ一代」より引用でもしないとやってられん)

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東京五輪を象徴するエンブレム

追記

www.nhk.or.jp

国立競技場以外にも選手村で2人、ビッグサイトで1人が死んでしまったらしい。言葉を失うわ…

我々の犬の生活 「パラサイト 半地下の家族」

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パラサイト 半地下の家族 [Blu-ray]

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「金」というフィクションが人類を苦しめる (★4)


金銭とは人類史上最大の八百長であり、人より金に価値を置く資本主義とは人類への侮辱に他ならない。「お前だって資本主義の経済の中で恩恵を受けているではないか、文句言うな」と言うやつは金の奴隷なのさ。恩恵を受けようが受けまいが資本主義が間違っている事実は揺るがない。人類は繁栄のために間違ったコースを選んだのであって、繁栄してるから正しいとはならぬ。


この映画を観る前は、たぶん藤子不二雄A「魔太郎がくる!!」や荒木飛呂彦「魔少年ビーティー」の一挿話のような「家族侵略乗っ取りもの」かと思っていたのだ。しかし映画を観て連想したのは、福本伸行「銀と金」のカムイ編だった。金にのみ価値を置く金の奴隷たちが王侯貴族のように振る舞い、他者を奴隷にし差別し踏みつけにする社会への怒りに満ちた傑作である。「銀と金」というマンガは資本主義のルールを悪用して資産家から金をさらうことで資本主義への異議申し立てとする奇抜な作品だった。それにしても「銀と金」が描かれたバブル崩壊後の90年代には、持たざる者が知恵と勇気を絞って一発逆転、大金持ちから財産を掻っさらうという夢がまだギリギリ、絵のド下手な福本マンガの中でなら辛うじてリアリティを持っていられたのである。森田鉄雄は、銀さんは、今どこで何をしてるのだろうか。会いたいぜ。


しかるに炭鉱のカナリヤたる世界の映画作家たちが貧困をテーマにせざるを得ない現代はどうだ。貧民は死ぬまで貧民だ。90年代に見た大逆転の夢は消え失せた。60年代の植木等なんかファンタジー。我々が生きる現代は、かつてチャールズ・チャップリンが描いたルンペンの世界に極めて近いものだ。「犬の生活」なのだ。そりゃあ時代が違うから、貧困描写も違います。サムスン持ってるけどWi-Fi泥棒。ピザの箱を折る内職やってるけどピザの出前をとる金もない。文書偽造スキルがあってもパソコンないからネカフェで難民。我々チャップリンが寒空の下で震えているのに丘の上の豪邸でガキンチョ甘やかしてる富裕層は、まあ別に悪いこともしてないし悪意もないし悪気がないのも判るんだが、それでも刺されてやむなしブルジョワジーの一員なんだよな。それなのにこいつらときたら、半地下と深地下で貧乏人同士がくんずほぐれつしてるんだからどこまでも救いようがない浮世のカラクリなんだよな。映画の出来栄えは、SFやらないときは冴えてるポン・ジュノさんのいつものクソ面白いやつでした。

「Gのレコンギスタ I 行け!コア・ファイター」

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行け!コア・ファイター

元気のGだ (★4)

2014年から2015年にかけ全26話で放送された『Gのレコンギスタ』は掛け値なしに凄い作品だった。その凄さたるや、御大がアクセル全開で作ってしまったために我々テレビの前のド素人が初見で物語を把握することが極めて困難なほどだった。なんじゃこれ、ワケわからん。そう言って、多くの人々が視聴をやめてしまった。わかりやすい快楽を与えてくれる深夜アニメ群の中にあってGレコは難解すぎた。深夜アニメなんて基本的にはぬくぬくしてて、オタクの自己愛が美少女ちゃんとなって表れて、あーワカルワカルー、イイヨネーそれ知ってるー、仙狐さんに好きなだけ甘えてよいのじゃーなんてことばかり永久に繰り返してるんだ。それは疲れた脳に染み込む砂糖ドバドバの袋小路だ。それはそれでもいいんだけどGレコは全然違うんだ。情報の奔流に呑まれて目が眩むほどに眩しかったんだ。世界は想像より遥かに広い無限であって、得体の知れぬわかりあえぬ他者だらけで、しかしガチャガチャ生きていくんだ。ニュータイプは現し世の夢、リアルは地獄。毎週放送される最新話を二度三度四度五度繰り返し観ることでしか、今この世で何が起こっているのか把握できない。そうしないと猛スピードの御大についていけない。それが複雑極まりないこの世界のスピードなんだ。元気のGだ。オレにとってGレコは全然思い通りにならない、最高にスリリングなアニメだ。これこそが作家の作品、言いたいことを全部ぶちまけてとっ散らかっても構わねえから本当のことをブチかます、描ききれなくても描くと肚を決めてやりきった、本物の中の本物なんだ。要するに何が言いたいかというと、今回映画になって多少わかりやすくなったけど、お前らGレコなめんなよ、元気のGは始まりのGなんだということです。

驚異の旅、その向こう側へ 「ロング・ウェイ・ノース 地球のてっぺん」

予告編を観てからどうしても観たかった「ロング・ウェイ・ノース 地球のてっぺん」であるが、あろうことか文化果つる高松市では上映していない。そこで徳島市ufotable CINEMAまで観に行った。知ってますか、Fateなんとか(観たことない)とか作ってるufotableというアニメ制作会社が建てた、小さな映画館です。

ちなみに中野と高円寺の間ぐらいにあるufotable Cafeは以前ご近所だったのだけど、行ったことはない。よく前を通ってたんだけどなあ、店が開いてんだか閉まってんだかよくわかんないんだよな。

国道11号線スーパーカブ110で高松から徳島へ、休憩入れて片道3時間弱。映画は81分。字幕版と吹替版の2回観た。ああ、これメチャクチャ好きだ。

いかに困難な旅であっても「彼女はきっと力を尽くす」と信じられることが、なんと尊いことかと思う。(★5)

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「HELLO WORLD」の残念さ

この連休はスーパーカブを駆って高知ナイター競馬に遠征したいと思っていたのだが、台風の影響で高知が大雨らしいので断念。ま、また機会はある。いずれ行く。そんなわけで高松のアパートでゴロ寝してたのだが、ふと思い立ってイオンシネマ高松東で劇場アニメ「HELLO WORLD」を観てきましたよ。先日ヴァイオレットエバー外伝を観に行ったのと同様の、どうしても観たい!というわけでもない軽い動機なのだけどアレですよね、忙しい時期なら観なかったようなちょっと気になる映画をひとつ観に行くと、立て続けに他のちょっと気になる映画を弱い動機でも観てしまう、つい映画館に足が向いてしまうような… こういうの… なんて言うのでしょう… この感じ… (ヴァイオレットちゃんごっこ)

HELLO WORLD Blu-ray通常版

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もっとスケベなアニメが観たいんだ (★2)

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「ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 -永遠と自動手記人形-」

イオンシネマ綾川にてヴァイオレットちゃん。あの事件がなければ劇場で観ることはなかった筈なので、不純な動機による鑑賞といえる。

ヴァイオレット・エヴァー外伝 (★2)

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天才による「ケムリクサ」、サリエリたちの「けものフレンズ2」

諸事情あって東京を去り、生まれ故郷に移住することになった。引越しの日が目前に迫っているが、腐海の如きアパートの自室からゴミを出すのに疲れ果て、荷造りも始まらぬうちに、とりあえず現実逃避すべくこの記事を書いている。雑な文章だが許していただきたい、オレは引越し準備で忙しいんだ。ああ忙しい。

2019年の1月~3月の深夜アニメは、アニメ史上に残る面白さだった。言うまでもなく同じクールでぶつかった「ケムリクサ」と「けものフレンズ2」のことである。

2017年の第一期「けものフレンズ」は腰抜かすほどの傑作であり、たつきというアニメ作家の衝撃的な商業デビューだった(同人では有名だったらしい、よく知らないが)。「9.25けもフレ事件」*1(このネーミング最高)を経て、たつき監督の新作「ケムリクサ」は2019年1月~3月に放送された。そして「ケムリクサ」と同時期にぶつけて放送されたのが、制作体制を一新した「けものフレンズ2」だった。その結果は皆様がご存知の通りである。

「ケムリクサ」は腰抜かすほどの傑作だった。アニメとして傑作なのはさておくとしても、オレが感心したのは作品テーマの今日性、たつき監督が見事に時代を掴んでいることだった。終わってしまったこの国の数知れぬ理不尽の中で、あきらめずに生きること。過酷な世界で、自分だけの生きる理由を見つけること。やさしさを失わないこと。寛容であること。愛すること。本当に大切なもののために、自己犠牲を厭わぬこと。

オレの見立てでは、たつき監督の才能はスタンリー・キューブリック級だ。いつハリウッドに引き抜かれてもおかしくないと思う。彼の年齢は30代半ばらしい。ハッキリ言って宮崎駿が「未来少年コナン」で演出家デビューしたのが35歳とか36歳、黒澤明が「姿三四郎」で監督デビューしたのが33歳だからね。判るだろ? そういうことだ。

対して、「けものフレンズ2」は商業アニメ作品として破格に不出来だった。しかしアニメのデキよりヤバいと思ったのは、作品を通してあらわになった作り手の思想と感性だ。他者を信じないこと。バカにすること。蹴落とすこと。そして最も冴えたやり方は、差別し、支配し、切り捨て、操ることで他者を自分の思い通りに動かすことである。嘘偽りなく「けものフレンズ2」にはこのようなメッセージが溢れており、本当に驚かされた。言語化せずとも作り手がそう「生きている」ことが、作品に残酷なほど表れている。「けものフレンズ2」を観てないそこのあなた、いくらなんでもそんなアニメがあってたまるかボケ、と思うことでしょう。あるんだよ。ホントにホントだ。

たつき監督の凄まじい才能と善良さを、たつき監督を排除した「けものフレンズ2」が結果的に証明してしまった。これだけでもたいへん面白い現象なのだが、「けものフレンズ2」の作り手たちは作品外の現実世界でも悪意の痕跡を大量に残してしまった。これがネットに巣食う好事家たち、及びわたくしの御馳走になっているのが現状である。2階席から見る場外乱闘はホントに面白いよな。

オレは、たつき監督を「けものフレンズ」から追放した連中の気持ちが、少し判るような気さえするのだ。映画「アマデウス」*2で、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトその人と出会ってしまった宮廷音楽家アントニオ・サリエリの気分だろうと思う。たつき監督ご自身は、こう言うちゃ申し訳ないけど冴えない感じのおっさんだ。同人あがりのCGアニメーターで、商業での実績は「てさぐれ!部活もの」ぐらい。そりゃけものフレンズプロジェクトでなくたって誰だって、こいつチョロい、コントロールできると思いますよ。ボンクラ新人監督を激安でこき使ってやろうと思いますよ。それがまさか、中身モーツァルトだとは。サリエリがモーツァルトを追い込んだように、連中がたつき監督をその才能ごと、才能ゆえに憎悪したとしても驚かない。それが我々受け手から見ても丸わかりというのは、きょうび脇が甘すぎるよな。「アマデウス」劇中のサリエリは、炎上せずに済んだ。ウィーンにネット回線がなく、宮廷にWi-Fiが飛んでなかったからだと思われる。さすがにサリエリとて悪意を自分の作品にこめて音楽の神聖を汚すようなことはしなかった。それでも、老いて自分の作品が世間から忘れられた後もサリエリは、モーツァルトの音楽が時代を超えて愛され、讃えられるのを目の当たりにしなくてはならない。時間に劣化されないモーツァルトの音楽と、それを愛した民衆が、時空を超えてサリエリを裁く。「すべての凡庸なる者たちよ、お前たちすべてを赦そう」とサリエリは言う。きっと「けものフレンズ2」の作り手たちも、サリエリに赦してもらえるに違いない。オレは許さない。

この「けものフレンズ2」騒動の中、テレビ東京のプロデューサーが批判対象の中心的人物になった(それにしてもこの騒動は批判対象が多すぎるのだけど)。オレの経験から言って、この人は確かにひどいがこの人に限らずPというのは十中八九ろくでもないものだ。その中でも局P、これはもう例外なく全員がクソである。そもそもプロデューサーというのは、システムの構造からしてどうしたって多かれ少なかれクソにならざるをえない役職なのだ。それは多くの場合、創作者ではないのに創作者以上の権力を持つことに起因する。実際、いろいろうまく回すためにはそんなクソなプロデューサーが役職として必要なのである。これは制作システムが必然的に抱えるジレンマであって、一種の必要悪なのだ。ゆえにプロデューサーとは悪であることを引き受ける存在であるし、優秀なPは自分が悪であることに自覚的だ。まれに「クソで申し訳ない」とすまなそうにしているPも、いるにはいる。だが局Pにはいない。少なくとも見たことない。

この騒動を、オレはゲスな気持ちで大いに楽しんだ。いや、今も進行形で楽しんでいると言わざるを得ない。これはオレが普段軽蔑しているワイドショーの感覚そのものだ。「けものフレンズ2」の瘴気が、自分の中の最もゲスな気持ちを引き出してみせたのだと思う。ズバリ言って、人に「けものフレンズ2」はお薦めしない。画面から発散される悪意と憎悪と不可解さで、体調を崩してもおかしくない代物だ。しかしアニメ史上類を見ない、極めて特殊な作品であることも間違いないのだ。「ケムリクサ」と「けものフレンズ2」を並行して観ていた今年アタマの3ヶ月間は、「生涯に一度きりの」「特別な」「かけがえのない」「極めて貴重な」体験だったと思う。二度とゴメンだけど。

ケムリクサ 1巻[上巻] [Blu-ray]

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アマデウス 日本語吹替音声追加収録版 ブルーレイ&DVD(2枚組) [Blu-ray]

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*1:http://dic.nicovideo.jp/a/9.25%E3%81%91%E3%82%82%E3%83%95%E3%83%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6

*2:言うまでもないが映画「アマデウス」はフィクションです

陰毛とワキパイパイとわたくし

あらゆる表現は規制されてはならぬとオレは思っているが、エロ表現に対する規制を訴える人は少なくない。しかしオレは、そんな規制には反対だーなどという当たり前のことを今ここで書きたいわけではない。

思えばオレが未成年だった昭和の時代、猥褻とは陰毛を露出することであるとされていた。陰毛が見えただの見えてないだのでしょっぴかれる出版関係者が時々いたと記憶している。平成になると篠山紀信が陰毛ありの写真集を発表し、これが摘発されなかったことから陰毛写真集が流行し、「ヘアヌード」なる珍妙な和製英語がまかり通るようになった。しかし昭和に地方都市で子供時代を過ごしたオレの感覚では、陰毛とはどこか滑稽な、間の抜けた、みっともない、野暮ったい愛嬌を感じさせるものだった。今に至るまで、陰毛それ自体に性的興奮を覚えた記憶はない。しかるにこの社会には、陰毛が見えたと言っては目を三角にして怒り狂う「立派な大人」が少なくないらしかった。どうも奴らにとっては陰毛こそがエロの象徴、極めて猥褻、観音様ありがたやな存在に思えているらしいのだ。奴ら自身が陰毛に狂おしいほど興奮するもんだから、年若き青少年ちゃんがインモーなんぞを目撃した日には性が乱れに乱れて少子化も解決しちゃうに決まっておる、と頑なに思い込んでいるらしい… ということをオレは知った。そして当時も今も、オレは全然そうは思っていないのだ。オレの見るところ、あれはただの毛だ。

昔からオレは不思議に思っていたんだ。エロを規制しようとする人は、なぜあんなにも無防備なのだろうか。これはエロい、教育に悪い、子供に見せられない! と主張することは、要するにこれがエロいと私は思っている、これが私を興奮させ背徳的にさせる、射精させるビチョ濡れにさせる、と主張することに他ならないと思うからだ。そんなこと、こっ恥ずかしくてオレなんかとても人前では言えねえ。美少女ちゃんの体操服姿だけがこの世で最も美しいなどとは口が裂けても言えねえ。連中には性癖を告白している自覚がないのだろうか。そこは都合悪いから考えないようにしているのだろうか。表現規制にお題目として「青少年のため」という正義めいたものが乗っかってるのもよくない。自分を正義と思いこめば、人は無防備になる。規制の理由を強弁するほど、自分の性的嗜好を衆目に晒してしまう。

このことを、漫画家の相原コージ先生・竹熊健太郎先生は早くから指摘しておられた。「サルでも描けるまんが教室」の第何版かに収録されたおまけ漫画「条例ができるまで」である。
https://note.mu/kojiaihara/n/n5b9341167623
この漫画で断固「ワキパイパイ」の表現を禁じようとする立派なジジイは、オレにとって忘れがたいキャラクターだ。いったい、どのように心を病めば人はワキパイパイ撲滅派になってしまうのだろうか。同情を禁じ得ない。

表現規制は社会にとっての害悪でしかなく、規制を主張する方々は困ったちゃんだなーとオレが思っているのは本当だ。しかしその一方でエロ規制派の方々のこのような無邪気さ無防備さ無自覚さを、どこか味わい深いというか、少しだけ微笑ましく思うような気分が自分の中に生じつつあるのをここ数年感じている。自分の尻尾を追っかけてぐるぐる回っているアホな犬を可愛らしいと思うような心持ちをちょっとだけ感じている。もちろんオレは昔も今も、エロ規制は世の中を悪くすると思っている。たかが陰毛ぐらいでビンビンに興奮していちいちカウパー垂れ流さないでくれと心から思っている。しかしそれでも、躍起になってワキパイパイを禁止しようとする連中も含めての「社会」ではあるんだよな。この頃は、そんな気分なんだ。

意外や楽しめた「未来のミライ」

今ごろレンタルBDで「未来のミライ」。細田守監督は「時をかける少女」は気に入ったものの、以後の作品はどれも気に入らず嫌いな監督の部類だった。さらに「未来のミライ」は世評も非常に悪かったので、腹立つんだろうなあと思いながら観てみたところ、意外やけっこう楽しめてしまった。

「未来のミライ」スタンダード・エディション [Blu-ray]

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インテリ幼児プレイ (★3)


話はほぼ連作コント。内容がクソしょうもなくて、正直言って楽しく観られた。細田守らしい歪みも勿論あって、横浜市磯子区にオシャレなだけの欠陥住宅を新築する悪徳建築士とか、尻穴に尻尾を突っ込んで小児性欲に目覚める肛門期の幼児とか、JK妹のクソしょうもないツンツン攻撃に内なる獣が目覚める幼児とか、劇団イヌカレーのできそこないのようなJR東日本駅員とか。あっこれマジメに観なくてもいいやつだ、と観てる側のオレの脳もいきおい幼児化しまちゅ。


冒頭、横浜の空撮カットには息を呑む。ただのパンダウンと思いきやカメラは浮遊しており膨大な住宅群が3Dで浮かびあがってくる。ただ細田監督、出来がいいからって何度も何度もこれやるんだよな。君そういうとこあるぞ。気をつけていただきたい。


前作「バケモノの子」では、登場人物が突然テーマめいたセリフを深刻ぶって読みあげる(文字通り、セリフを読んでる感じにしか受けとれない)場面で鼻白んだものだった。今回もJKが同じようなことをやるんだけど、びっくりするほど普通の内容を適当に喋ってるだけで、そもそも話がクソしょうもなさすぎるので耳障りにすらなってない。なにしろ脳が幼児化してるから気にならない。


今回も白バックでパラレル時空の系統図みたいなのが出てくる。つくづく細田守は「図式」の作家だ。図にすれば君たち愚民にも判るでしょ、ホーラあっちにパン、こっちにパンですよ的なイヤミが常に作品にまとわりつく作家で、実は図式でしか世界や人間を理解できないのは細田守自身であるような雰囲気も濃厚で、オレはあんまり好きじゃない作風なのだけど、今回みたいなクソしょうもないコントでも頑なに図式やるんだ、やっぱりケモナーやるんだJK出すんだ赤ちゃんフニフニするんだ、ここまでくるとなんだか細田監督の「業」のようなものを感じてあんまり腹も立たなかった。しかしアニメ業界でもかなり頭よさそうな細田監督が、愛されない作品を連発した挙句にたどりついたのが幼児でちゅアバババの境地とは、やっぱり業の深い人なんだなと思いました。

今ごろ「アナと雪の女王」

アナと雪の女王 MovieNEX [ブルーレイ+DVD+デジタルコピー(クラウド対応)+MovieNEXワールド] [Blu-ray]

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今ごろになって「アナと雪の女王」をBD鑑賞。この映画が日本でヒットしたのは2014年で、もう5年前のことだ。オレは昔から今に至るまでディズニー映画がおおむね嫌いで、この映画にもあまり関心がなかった。ヒットした主題歌が街やメディアで流れるたび、なんとなくわずらわしく思っていた程度だ。それでも5年経ちヒットの熱も世間から冷めてきたこの頃合いで、ちょっとしたきっかけもあって観てみた次第。自分には、これぐらいの距離感がディズニーとは必要なのだと思っている。

性 (★3)


慕っていた姉と生き別れになり、十数年ぶりに再会できるその日に姉のことなど念頭になく、「運命の人」を探し回る妹。唐突に出会った田舎王子を逆ナン。色を知る年齢(とし)か! 十数年幽閉され青春を奪われた姉に向かって、何不自由なく生きてきた妹が「こんな暮らしはイヤ」とか普通に言ってのける。彼女の言動は完全にサイコパスで、能力によって怪物と化す姉以上に深刻な問題を抱えた存在として描かれている。雪ダルマに「君は本当に愛を分かってない」と言われる場面があることからも明らかだ。勿論、ディズニーは登場人物をあからさまなサイコパスとして描いたりはしない(これをナチュラルにやるのは米林宏昌監督作品だ)。厳重にオブラートに包んだうえで、ハチミツをぶちまけてお出しするのがディズニー伝統の品質管理だ。


この映画で最も気合いが入っているシーンはなぜか前半にあり、姉が山に氷の城を建てるくだりだ。レリゴーのやつです、レリゴーのやつ。能力を縛る手袋、玉座に縛る王冠、寒さを防ぐマントを次々と捨てさり、それらに一瞥もくれぬ姉。容赦なき攻撃性を纏い、我々に対して叩きつけるようにドアを閉じる。能力を振るうことにもはやためらいはなく、女王を辞め国を捨てる決意、さらには人間をやめ魔女となって世界を拒絶する覚悟を十全に表現しており圧巻だ。歌以上に、映像(芝居)で表現している場面なのである。姉は新たに氷のドレスとマントを纏う。これってアメコミにおける「怪人(ヴィラン)」の誕生なんだよな。シュワルツェネッガーのミスター・フリーズよりイケてるぜ。言うまでもなく有名な日本語詞の「ありのままに」は悪意ある誤訳であって、let it go は「もうええねん」みたいな感じなのだ。ゆえに日本語吹き替え版では、この場面の表現する絶望、覚悟、それがもたらす解放といったニュアンスは全滅しており極めてしょうもない。OLの自己実現の歌じゃねえんだよな。


タイトル「frozen」とは「凍った」ってことだが、他の意味もある。「冷淡な、冷酷な」「身動きできない、すくんだ」「固定化した、凍結した」など。ちょっと変化させた「frigid」では「不感症の」となる。不感症、勿論これは医学用語でさえなくて、性的な問題を示す古くさい言葉だ。しかしこの映画の核を表現する言葉でもあると思う。ホットなセックスから最も遠い場所にいる、冷たい女のイメージ。色を知る妹とは対照的に、姉はセックスと無縁の存在だ。男性を愛するかもしれぬ兆候すら見られない。性への嫌悪というよりも、性に無関心なように見える。しかし昔むかしの王家の姫なんて、結婚することと子供を作ることが仕事だった筈だ。男性を愛せない姉が、女王の義務として結婚し、夫とセックスして子を産まねばならない。これは耐え難いことだろうな。「オレは人間をやめるぞ! ジョジョーッ!」となってしまうわけだよ。一方でサイコパスではあるものの惚れっぽい妹は子を産むことに抵抗なさそうで、国家の「望ましい女王」像に近い。対照的な姉妹の性にまつわる相克が、この映画の中心的なテーマであることは疑いようがない。


それなのになんだこれは。映画はこれら深刻なテーマを放り出して極めていいかげんな、嘘まみれのハッピーエンドで締めくくられる。姉を出戻りさせるにあたって、彼女がヴィランとなるあの場面を超える熱量を示した者はいない。問題は依然あるのにまるで何かが解決したかのような、どいつもこいつもニコニコ顔。台無しにも程がある。とりわけ、怪物問題がぞんざいに扱われることは耐え難い。オレが不思議なのは、毎度こんなグダグダ映画ばかり作っててディズニーのスタッフたちは欲求不満にならないのか、ということだ。レリゴーの場面で力尽きたのかもしれないな。

飯塚、引退

オレは今のブシロードプロレスにさしたる魅力を感じない昭和の老害なれど、2月21日の後楽園ホールで飯塚高史が引退すると聞き、久々に心にザラザラしたものを感じている。引退興行を観戦する予定はない。

飯塚孝之(旧リングネーム)は、どうにも使えないレスラーだった。けっこう端正な顔つきをしていたので、新日は次代のスター候補生として飯塚にサンボ留学、長州とのタッグ、ドラゴンボンバーズなどチャンスを与え続けたが何をやってもパッとしなかった。1992年、ヨーロッパでの海外遠征から帰国した飯塚は、リング上からスーツ姿で闘魂三銃士への挑戦を宣言した。それだけでは終わらず、当時テレ朝深夜のクソ番組「プレステージ」にゲスト出演していた三銃士に、別場所からの中継で挑戦を申し込んだ。緊張しながらも精一杯凄んでみせた飯塚に対して三銃士は失笑、或いは鼻で笑ったものだ。特に橋本はひどくて「メッチャ緊張してんじゃん」などと笑い転げていた。このへんで飯塚という男が生涯背負う「レスラーとしての格」が決定してしまった感があった。

「まるで木村健吾のようではないか」、当時のオレはそう思った。プロレスに向いてないし、才能もないのにプロレスラーやってる人の象徴が木村健吾だった*1。しかし、木村健吾より飯塚はいくらか顔が良かった。ゆえに、実にもったいない感じがしたのだ。そこでいったいどうすれば飯塚が光れるのか当時のオレは考え、全日移籍しかないという結論に至った。有望な若手だった小橋(当時アジアタッグやってたぐらい)と何度も対戦して全部負ける。そうでもしないと光らないだろうと思ったのだ。しかし同時に、飯塚さんに移籍などという思いきった行動をとる理由も根性もないことは判っていた。

三銃士への挑戦はウヤムヤになった。1995年10.9東京ドームでのUインター対抗戦では、まだ若くヒョロヒョロだった高山善廣にコロリと負けた。以降数十年にわたってファンの記憶に残り続ける大一番で、前途有望な若手に白星を献上する役に回されたのだ。以後、悪夢の如きJ・J・JACKS、山崎隊などを経ても飯塚さんはいっさい化けることなく、順調に窓際おじさんとなっていった。箸にも棒にもかからない汚れ仕事にくすぶりながら、とはいえ燃えあがるような実力には欠けている彼の佇まいに、いつしかオレは認めたくない自分の姿を重ねるようになっていた。この感覚は、木村健吾の時にもあったものだ。彼が自分でどう思ってたかは知らないが、飯塚がリングで見せていたのは腕がないため使われてすり減ってゆく我々大衆の姿だと思った。人生うまくいかないすべての人々の姿だと思った。まー正直言って、金を払って見たいものではない。

2008年のヒールターンは、新日本プロレス暗黒期から好況期への曲がり角にあたる重大な出来事だ。天山と友情タッグ結成からの裏切り、小島の登場に至る展開は、追いこまれた新日本がとうとうゲロったということを誰の目にも明らかにした。新日本プロレスの本質が演劇であり茶番であること。レスラーたちが演者であること。もう二度と強いとかキングオブスポーツとか言わないということ。ホントに強いブロック・レスナーなんか永久に呼ばねえということ。飯塚のヒールターンにまつわる一連の展開は、オレにとって高橋本よりも大きな出来事だった。猪木の格闘技路線に傷つき悲鳴を上げていたプロレスファンの多くが、この方向を支持した。オレは支持できなかった。飯塚が社畜ヒールとして会社の言われるままに仕事をこなせているリングが、人間の本質とは何の関係もない場所であることは明白だったからだ。言葉は台本に書かれた台詞となり、それを噛まずにゆっくり棒読みできるやつが重宝されることになった。棚橋弘至といういち早くゲロったレスラーが以後10年、新日の空虚なサル芝居を牽引することになる。

10年間ひと言も喋らず、やれと言われたヒール像を来る日も来る日も演じてきた飯塚高史。平成の最初から最後までひとつの会社に勤めあげた飯塚が引退することでひとつの時代が終わるのだ、などと書けばそれっぽいのかもしれぬが、オレは全然そうは思わない。木村健吾と飯塚高史が昭和と平成を彩った、パッとしないレスラーの系譜は現代にも脈々と生きている。後藤洋央紀さんがそれである。プロレスがいかに変質しようとも、どうにもパッとしない、いまいち凡庸なレスラーはいつの世にも消えることなく存在する。そして、彼らの仕事を嘆く前にオレは自分の人生を心配するべきだ。だから彼らを見るたび、オレの心はザラザラするのだ。

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かつての飯塚&天山

飯塚高史 「IRON FINGER FROM HELL」 Tシャツ L

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*1:オレは反選手会同盟が好きだったが、木村健吾も好きだったかと聞かれると困る