キャラクターとキャラクター・グッズ

手塚治虫のマンガ「三つ目がとおる」を読んで感じたのは、久々に生き生きしたキャラクターをマンガで見たなあ、ということだった。この機会に物語の中の「キャラクター」について少々。和登さんの話にはならないよ。
面白いキャラクターは、それだけで客にとって「観る理由」になりうる。キャラクターとはなんだろうと考えるときにいつも思うのは、世にあふれているキャラクターの大半は実は「キャラクター・グッズ」にすぎないのではないのか、ということだ。この話はややこしくて、キャラクターとキャラクター・グッズは明らかに違うのだが、同一のキャラクターでさえ、観る人によってはキャラクターだったりキャラクター・グッズだったりする。
あんまりハッキリした話ではないのだが、オレの中にもなんとなく二者を分ける境界線がある。「こういうキャラクターですよ」という説明が鼻につくものが「キャラクター・グッズ」である。説明が説明にしか聞こえない時点でそんな物語はたいしたものではないのかもしれないが、「定義」だの「設定」だのといった言葉が一瞬でも脳裏をよぎるようなキャラクターは全部キャラクター・グッズだと、ここではとりあえず言いきってしまいたい。キャラクター・グッズには血がかよっていない。そこでは物語はキャラクター・グッズのために語られる。グッズが主で物語が従だ。そういう作品は例えばオタク市場向けの萌えアニメには少なくない。それはそれで結構な話なんだけど、オレが本当に観たいものは違う。
オレがこうあってほしいと思う「物語の中のキャラクター」とは、物語の中で実際に生きていると思わせる存在のことだ。物語の中でどう生きるかが、そいつがどういうキャラクターであるかを決定する。だからとりたてて説明のための説明はいらない。物語内の事件への反応(リアクション)でわかる。そしてそのキャラクターの生きた反応が、新たに物語を作っていく。文章にするとなんだかえらいキレイ事に聞こえるが、そういう映画がオレは好きだ。例えば映画「七人の侍」で、子供を人質に立てこもった泥棒のくだりがそうだ。ここでは三人の侍志村喬三船敏郎木村功)が登場する。事件に対する反応で人間を描いた好例だ。同時にそれがキャラクターの説明にもなりえている。そしてそれぞれの反応の違いが、次の物語を生み出してゆく。
生きたキャラクターを好きになるか嫌いになるかは、観客の自由だ。キャラクターが生きていれば生きているほど、観客は様々な角度からキャラクターを見、考えることができるからだ。つまり「キャラクター」は消費の対象にはなりえない。これに対してキャラクター・グッズは基本的に作り手が制限し意図した情報しか見せないので、観客の自由は少ない。決められた感情を消費するだけだ。作り手としては絶対にそのほうが楽なのだが、ちょっとそれはつまらないなあとオレは思ってしまうのだ。
キャラクターを「人間」、キャラクター・グッズを「人形」と言い換えてもいい。わかりやすく言えばアントニオ猪木は「キャラクター」だが、グレート・ムタは「キャラクター・グッズ」である。

三つ目がとおる(1) (講談社漫画文庫)

三つ目がとおる(1) (講談社漫画文庫)