中邑より断然ザ・プレデターとトム・ハワードだろ!

以下の文章は大晦日に向けて自分を追い詰めるために書いているので、冷静なツッコミは無用に願います。
中邑はバーリ・トゥードという競技がすでに広まった時代に新日本プロレスを選択し、入門してデビューした男である。総合とプロレス、どちらでも強い選手になりたいという明確な意志を最初から持った、新しい時代のプロレスラーだ。こういう人がこれから増えてくるのだろうか。それはそれで結構な話ではある。
プロレスにとってバーリ・トゥード(めんどくさいので以下総合と書く)は黒船だった。中邑よりも上の世代のプロレスラーたちは、この突然の黒船にどう対処するのかという選択を、時代の中で否応なしに強いられた。無視する者、罵倒する者、違う価値観を示す者。あるプロレスラーたちは真っ向からこの黒船を叩き潰そうとした。「ヒクソンなら飯塚でもいけるだろ、ああ。なあ金沢!」ってなもんである。しかし吹くだけなら長州でもできるが、実際に闘ってみると総合というものはなかなか厄介なもので、プロレスラーはなかなか勝てない。グラウンドで打撃が許されるだけでこうも違うものか、と思うほど総合は別の世界であった。
総合に挑戦するときに、総合のセオリーを学ぶことは大切だろう。それを学ぶことでプロレスラーは総合に適応していったし、勝率も上がってきた。しかし総合黎明期にオレの感情を激しく揺さぶったのは、セオリーを学ぶよりもまず今までの自分の経験を武器に闘うレスラーたちだった。自分の経験を信じること、自分が今まで血ヘド吐きながら身につけた技術が通用すると信じること。柔術幻想を軽々飛びこした桜庭和志はその代表であり成功例であった。ヒクソンのマネをして敗れた船木は失敗例である。
ちゅうか早い話、プロレスラーがプロレスラーのまんま、一切自分を曲げずに総合で勝つところがオレは見たいのだ。だから小川直也がグッドリッジを倒して「いつもと同じ、プロレスをやっただけ」と言い張ったのは、オレに言わせれば美談である。どれだけ総合の練習をしていようと「これがオレのプロレス」と断言する小川は総合格闘技界のプロレスアレルギーを刺激しまくっていて痛快だった。
「ヒクソンなんか天龍チョップ一発ですよ!」「ノゲイラなんて小橋がラリアットしたら死ぬだろ!」「ミルコなんか永田さんが敬礼しただけで逃げ出すよ!」などなど、プロレス者はムチャを承知でこういう発言を繰り返し、どんどん自分を追い詰めていく。それは自分が愛したプロレス、プロレスを愛した自分、プロレスと生きてきた人生を決して「否定しない」という覚悟と勇気の表明でもあるのだ。プロレスラーが自分の過去の経験を信じて総合に挑むなら、プロレスファンは自分の過去の感動を信じて総合に挑む。負ければ死ぬほど傷つく。
多くの人はプロレスを「卒業」する。過去の感動を清算できる人なら、現状のプロレスのありさまを見て卒業しない方がおかしいくらいだ。しかし過去の感動をどうしても清算できない連中はいまだにプロレスを観ており、愛するプロレスラーが総合で負ければともに傷つき血の涙を流す。世の中でこれだけ蔑視されているプロレスへのどうしても割りきれない巨大な思いが心の中にゴロリゴロリと転がっていて吐きだせない。オレはそんな連中の1人だし、割りきれる人生なんていらないと思っている。
ザ・プレデター、トム・ハワードは典型的なプロレスラーだ。プロレス者が大晦日にザ・プレデターとトム・ハワードの単勝馬券を心に握りしめるということは、敗れたときにはともに傷つき、のたうちまわって血ヘドを吐きながら新年を迎えるという諸刃の剣。素人にはおすすめできない。アビディなんか、プレデターのキングコングニーで即死ですよ!