「シービスケット あるアメリカ競走馬の伝説」

シービスケット―あるアメリカ競走馬の伝説

シービスケット―あるアメリカ競走馬の伝説

マンノウォー系の競走馬シービスケットにまつわるノンフィクション。大恐慌後の時代の気分の中で、1頭のサラブレッドが大衆の夢の受け皿となって祭り上げられていく歴史の過程を丹念に描く。これほど昔の競馬史を読む機会もそうないので、かなり面白かった。シービスケットは第二次大戦前から大戦中まで走っていた馬である。力道山のプロレスよりも昔のお話なのだ。

たかが1頭のお馬さんが例えばベーブ・ルースルー・テーズ長嶋茂雄のような時代を象徴するスーパースターたちと同じように大衆から愛されるということを、感覚的に理解できない人も多いだろう。それも当然だ。馬は歴史に残る名言を吐いたり、手術を怖がる少年のために予告ホームランを打ったりしない。馬はただ走るだけである。
日本にも時代を象徴する、いやもはや時代そのものといってもいいほどのスターホースが、過去に少なくとも2頭存在した。ハイセイコーオグリキャップである。毎週毎週なんだかんだとレースをやっていると、非常にまれにだが、ケタ外れのエネルギーを持つメチャクチャな馬が現れることがある。そしてさらにまれなことだが、そんな馬の持つバカげたエネルギー、その熱に、時代が反応してしまうことがあるのだ。もの言わぬ1頭の競走馬に肩入れし、人生まで賭けてしまう人間が続出する現象が起こる。
オグリキャップの競馬をリアルタイムで体験したオレの友達は「オグリはオレだ!」と言いきった。オレはオグリの時代には競馬をやっていなかったので、そいつが羨ましくてたまらなかった。オレが後追いでオグリのレースのビデオを全部観ようが100のオグリ物語を読破しようが、あの日あの時オグリと同じ時代を生きたというそいつの体験には到底かなわない。永久にかなわない。

オレがこのよくできたノンフィクション「シービスケット」に小さな不満を感じるのは、まさにそこである。著者のローラ・ヒレンブランドは、シービスケットの時代を体験していない。生まれてもいなかっただろう。1度もシービスケットの競馬を観ていないし、1度もシービスケットの馬券を買っていない。だからこれは後の時代から冷静に振り返る、むかしむかしの歴史物語である。その限りにおいては、著者は素晴らしい仕事をしていると思う。

だが過去にオレが読んだ中で最高に面白かった競馬本のひとつ、渡瀬夏彦の「銀の夢 オグリキャップに賭けた人々」なんかはもっとケタ外れに面白かったのだ。

こちらでは、著者自身が1人の競馬ファンとしてオグリ時代を体験している。本の中で語られるオグリ史の途中に「ちなみにこの時オレはこんな馬券を買っていたのだが」などという記述が頻繁に紛れ込んでおり、それが当時のオグリを取り巻くファンの気分、マスコミの気分、時代の気分を雄弁に伝えているのだ。かけがえのない1枚の馬券は、どんな言葉よりも雄弁だ。渡瀬夏彦という人がノンフィクションライターとしてなんぼのもんかは知らないが、彼は間違いなく彼にしか書けないオグリキャップを書いた。それは「シービスケット」の著者にはできなかったことだ。だから「シービスケット」は実に面白い本だが、最高の本だとはオレは思わなかった。
以下は余談。訳はダメダメである。訳者は一般には通じない競馬用語を自分が知らないからか意識的にか避けているのだが、そんなもんバンバン使って巻末に用語解説とかつけとけばよろしい。読者はアホではない。この訳者は競馬を知らないのだろうか、日本の競馬ファンが当然疑問に思うことの多くを素通りしている。当時のアメリカ競馬はハンデ戦ばっかりだったのか、それはなぜか、東部と西部における競馬の格付けの実態などなど。まあでも、こういうことをきちんと書ける人は当然競馬ファンだろうから、毎週の競馬の予想に忙しくてこんな厚い本の翻訳なんかやってられねえんだろうなあ。

映画版のキャストを見て驚いたのだが、アメリカのベテラン騎手ゲイリー・スティーブンスがかなり大きな役で出演しているのだ。おお、オレこいつのレース、生で観たことあるよ! あれは東京競馬場武豊スペシャルウィークで勝ったジャパンカップだった。