「タイガーマスク」 梶原一騎、辻なおき

タイガーマスク(1) (講談社漫画文庫)

タイガーマスク(1) (講談社漫画文庫)

先日からじわじわ読んでいた漫画「タイガーマスク」読了。読むのは10年ぶりぐらいだ。
タイガーマスク伊達直人という人間の美しさは、古今東西あらゆるフィクションの中のあらゆるキャラクターの中でもズバ抜けている。それは「人のために」、「血を流し」、「報われない」、この単体でも非常に美しい事柄が3つすべて、奇跡的に純粋な形で結晶化された人物だからだと思っている。
伊達直人ちびっこハウスの子供たちのためだけに闘うのではない。タイガーマスクが地方巡業で訪れたボロボロの孤児院の惨状、そこに生きる盲目の少女を見て愕然とするシーンの美しさはただごとではない。敵との闘いの中、苦痛の極限の中でタイガーが見るのは「みなしごランド」の夢なのだ。タイガーは文字通り血を流し身を削り、傷だらけになって闘う。プロレス漫画なんだから当たり前と言うなかれ、漫画において「実際に」血を流し闘うことは非常に重要で、ろくに傷ついていないやつの話なんかズバリ言って読むに値しない。オレが恋愛漫画を読まないのは単にそんな柄じゃないというだけではなく、恋愛漫画においていわゆる「傷ついた」場面を読んでも、お前たいして傷ついてないやんとしか思えぬからである。お前らいっぺんでいいからふく面ワールドリーグ戦に出場してタイガーが味わった地獄をはいずりまわってから惚れたはれたをやってみやがれ、と思ってしまうのだ。これは明らかに言いがかりだが、同時にオレの本音でもある。肉体の苦痛をバカにしてはいけない。断言するが、恋人に去られるよりも悪役レスラーに血祭りにされる方が痛いに決まっているのだ。そう思わせぬ切実さをもって恋愛を描いた漫画をオレは知らぬ。
あしたのジョー」こそが梶原一騎の最高傑作であるとは、オレも思う。あれは「タイガーマスク」よりもオレたちに近い生々しい物語で、多くの人間がジョーに肩入れすることができた。そして漫画として、あまりに完成度が高かった。ちばてつやも最高だった。
だが思想の面からいえば、「タイガーマスク」は「あしたのジョー」の遥か先にある。それは「ジョー」第一巻でジョーが廃墟で語る「ゆめの大計画」が、「タイガーマスク」においては伊達直人の見果てぬ夢「みなしごランド」として物語の中核を占める重要なモチーフになっていることからも明らかである。梶原思想、その作家精神の最も純粋な形は「タイガーマスク」にこそある。そして純粋すぎたからこそ、「ジョー」の生々しさを飛び越えて荒唐無稽の域に達せざるを得なかったのが「タイガーマスク」なのだ。梶原一騎の精神が理想とする生き方が「タイガーマスク」にはあり、しかし人間臭く子供っぽい野心の権化であった梶原一騎の実像はむしろ「ジョー」の生臭さに近い。というよりも、やさぐれまくった「カラテ地獄変」なんかに近い。近いのではあるが、それでも梶原一騎の心の奥底、彼のとっておきのとっておきの純情は「タイガーマスク」のような献身、自己犠牲、無私の善意を理想とし憧れていたのは間違いない。
漫画としてはデタラメかもしれないが、「タイガーマスク」の真価は漫画としてのクォリティーにあるのではない。
タイガーマスク」は聖書である。これは言葉の綾でもなんでもない、そのままの意味で「タイガーマスク」は聖書そのものである。伊達直人はキリストの100倍偉い。それは「タイガーマスク」が闘いの概念をも含んだ献身と愛情を描いているからだ。読めばわかる。

あしたのジョー 全12巻セット (講談社漫画文庫)

あしたのジョー 全12巻セット (講談社漫画文庫)