8/15、PRIDEGP決勝戦

友人たちと、新宿歌舞伎町のスポーツバーにて観戦。

この日は小川に尽きた。オレは小川に勝って欲しかったし、勝てるんじゃないかとも思っていた。小川とヒョードルどちらが強いかなんて戦前には誰にも判らなかったことだ。結果が出た今でこそ「そりゃ総合ではヒョードルの実績が上」「経験が上」などと知った風な口をきくやつがぞろぞろ出てくるが、このおなじみの後づけ構造、オレは競馬というジャンルにおいて腐るほど見てきて熟知しておるのだ。終わったあとなら何とでも言えるのも自明、そしてことが終わったあとにあたかも答え合わせのように人々が語る言葉に、いかに嘘が多いかもよく知っている。嘘とまでは言わずとも、そんなもん見当外れ、早合点、願望、歪曲、捏造の祭りである。戦前の言葉はただの予想にすぎず、戦後の言葉は後出しジャンケンにしかならない。オレたち観客の言葉など、吹けば飛ぶようなもんである。しかしそれらが真実に遠いからといって、耳を傾ける価値がないものともオレは思わない。真実なんて、誰にもわかってないのだから。

オレはただ「小川負けたあ。負けちゃった」と思って呆然としていた。小川が致命的な失策を犯したようには見えなかった。ただ打撃で先手を取られはした。それ自体は普通なら不利な展開でこそあれ、それがそのまま負けに直結するものではないとオレには思えた。しかしヒョードルは、先手をとりさえすればもう勝ちが決まった詰め将棋のように、スキ間なくそのまま押しきってしまった。小川はどうすればよかったのだろうか。オレには判らない。判るのは、とにかく小川が負けちゃったということだ。オレはどんな意味でも今日の小川を責めはしない。どういう意味においても、自分の心の弱さを小川に転嫁しない。だからといって小川よ夢をありがとう的な賞賛も今日に限ってはたいへん気持ち悪いのだが、「勝っても負けてもハッスルしなけりゃ意味がない」、この概念に小川は命を張ってみせた。それは受け取った。

ひとつ、今日も感じた(今までも時々感じてきた)違和感がある。ヒョードルの相手に何もさせず1秒でも早く勝とうとする姿勢、そしてシウバが見せた顔面へのためらいない踏みつけ連打。2人はそれによって勝ったし、それによって相手は負けたんだけど、それがどうもオレには強く見えないのである。それは「強さ」とは別の何か、たとえば「要領」とか「セコさ」とか「おおいそぎ」といったものではないのか、という割りきれない思いがある。ミルコ対ヒョードルが実現して、開始3秒、ミルコがハイキックでヒョードルを失神KOしたとしよう。たぶんそうなっても、オレは同様の違和感を覚えるような気がする。これがギルバート・アイブル対グッドリッジならばそんな試合でも面白かったなガッハッハですむが、世界最強を決める試合でただ第一次接点を制しただけでKO勝利されてももう何がなんだか、それでミルコが一番強いとは思えないのである。じゃあ強さとはなんだと言われてもさっぱり判らないし、選手はそういうルールだと承知して闘っていると言われても、オレはそもそもルールなんかまったく重んじていないのでピンとこないのだ。だからこれは昭和プロレスファンの繰言なのだが、こういう感覚は他に誰も抱いていないのだろうか?