「甲野善紀身体操作術」感想

登録リクエスト中であるCinemaScapeに書いたコメントをこちらにも転載する。これは現在公開中の映画で、できれば多くの人に観てもらいたいと感じた映画だからである。
映画「甲野善紀身体操作術」公式サイト
CinemaScape「甲野善紀身体操作術」のページ

「思考と身体」の両輪が生むセンス・オブ・ワンダー
(評価:★5)
人間は精神と肉体でできている(ここでは思考と身体と言い換えて話を進めたい)。思考と身体のどちらか片方だけでは、人間という存在は成立しない。思考と身体は切り離せるものではない。ローマ法王も霞を食っては生きていけないし、人類は宇宙に行っても小便をしなければならず、モーニング娘。とて例外なくウンコする(しない派もいます)。しかし現代という時代は、おおむね身体の存在を蔑ろにする傾向があるようだ。

現代において身体の役割の多くは、数多くの便利な機械によって肩代わりされている。たとえば電車や自動車を使えば、我々は歩くよりもずっと早く目的地に辿り着ける。これは便利で結構なことなのだが、しかしそのせいで我々は「身体の使い方」を忘れつつあるのかもしれない。ついでに言えば最近はコンピュータやwebが思考の働きの一部を肩代わりするようになっており、身体と思考の両方を機械に預けた人類の行く末やいかにと考えるならこれはもうサイバーパンクの世界である。その先にあるであろう人間存在の文学的ゆらぎを早くから真面目に考察してきたのはSFだけであり、それはもはや絵空事ではなくなっている。時代は容赦なく進んでおるのだ、お前らSFなめんなよ! いやこれは関係ない話であった。

電車も自動車もなかった昔、人はずいぶんよく歩いたという。たとえば「江戸から大坂までは歩いて何日ぐらいかかるか」なんてことは現代を生きるボクちゃんには見当もつかないが、それを誰でも常識的に知っている時代もあっただろう。人が身体をよく使っていた時代、人は自分の身体には何がどこまでできるのか、知り尽くしていたのではないだろうか。一日歩けばどこまで行けるのか。どれほどの重さの荷物を運べるのか。そしてそれら身体の働きで、自分はどれほどの営みを為せるのか。思考と身体の両輪は常に回転し、互いに交信しあっていたのだろう。

そんな時代、武術の世界には「達人」が存在した。達人の技がいかに凄かったかという逸話は様々な文献に記されて後の世に残り、それらはより面白く誇張されて講談や時代小説に引用されていく。自分の身体との交信も途絶えがちな現代の我々からすると「無理だろ!」としか思えない達人の妙技を、我々は一種のファンタジーとして楽しんでいる。

甲野善紀古武術の研究者だ。オレが甲野善紀を知ったのは1990年代の中頃、「紙のプロレス」(現「kamipro」)という雑誌でのインタビューを読んだからだった。当時のオレの理解では、甲野善紀古武術における達人の技が「実際にできるものなのか」を研究・検証している面白おじさんであった。

例えば剣術において、昔のある達人は正眼に構えた相手に下段構えから勝負して勝てたという文献がある。これは現代の剣道ではほぼ不可能とされており(競技剣道において下段の構えはほとんど見られない)、達人幻想が生んだファンタジーとして扱われていた。しかし「紙プロ」のインタビューによれば甲野善紀は身体と剣の操作を工夫し、下段からでも間に合う「やりかた」を発見したという。正眼の相手の攻撃が当たる前に下段構えの甲野善紀が相手の小手を打つその「やりかた」は、このドキュメンタリーで見ることができる。それは「なぜか間に合っている」としか言いようがない、きわめて地味で美しい動きだ。

紙プロ」のインタビュー以来、オレはずっと甲野善紀に注目してきた。著作も読んだ。甲野善紀は達人の「神秘」と我々の「常識」の境界線にまたがって立っている人であり、なにも武術に限らずともジャンルを問わずこういう人が貴重な存在であることはオレにも理解できたのだ。約10年の間に甲野善紀は身体の運用原理をさらに幾つか発見し、著作も増えた。NHKにも出た。この10年で(或いはもっと以前からかもしれぬが)甲野善紀は単に古武術のみの研究者ではなく、身体の操作運用の可能性を探る哲人に化けていた。現代スポーツの競技者から助言を乞われたり、本来「武」と無関係である介護の現場から大歓迎されたりするようになった。そしてようやく、甲野善紀を撮ったドキュメンタリー映画が作られた。

自分の技を言語化できなかった過去の達人たちに比べて我々にも理解しうる「言葉」を十二分に持つ甲野善紀にして、その術理は話だけ聞いても理解しがたいものだ。しかしこの映画の映像を観ることで、その一端を知ることはできる。そして甲野善紀の術理に触れた人々の実感を伴ったリアクションを観ることで、それがどれほど我々の常識を覆すものなのかを想像することはできる。平易な言葉を使えば、「身体操作術」とはちょっとした「コツ」の集成に他ならない。武の達人と平凡なボクちゃんを隔てているのはこの膨大な「コツ」の集成の有無であり、その差は思考と身体の両輪を回転させ続けたかどうかに尽きる。これは小さくないセンス・オブ・ワンダーである。

結局オレごときがここでいくら言葉を弄しても、甲野善紀の面白さは伝わりそうもない。とにかく映画を観ていただきたいとしか言いようがないのだが、ひとつ注意していただきたいことがある。それはこの映画に再三出てくる「考えても判らない」「体感しないと判らない」といった言い方で、なんだか甲野善紀を何か神秘的な教祖のように誤解されやすそうで気になった部分だ。これは翻訳すれば「考える「だけ」では判らない」「体感した上で考え、試してみなければ判らない」ということであって、ただびっくりして「甲野先生、すごいすご〜い」というだけの信者が増えることは甲野善紀も映画の製作者も望んでいまい。

映画の中に、甲野善紀の一人稽古を撮影したくだりがある。「より自然で無理のない精妙な動き」を求めて試行錯誤を続ける甲野善紀の姿は、武道家の過酷な稽古を想像する向きには拍子抜けしてしまうほど地味だ。甲野善紀は動いて、考えて、また動いて、何やらブツブツ呟きながらまた考え込む。これは実に厳粛で、誠実なる学究の徒の態度に見えた。ここで行なわれているのは思考と身体が交信する際限なきフィードバックであって、ただ単に体を鍛えて強くなろうという概念は存在しない。思考と身体の両輪を回し続けること自体が甲野善紀の世界であり、より自然な「人間のありよう」でもあるのだろう。

甲野善紀身体操作術」を1本のドキュメンタリー作品として観ればいろいろ文句もあるし、音響の無策やピンボケの多さには閉口した。しかし何より、この映画はオレが見たかったものをまざまざと見せてくれた。だから作品の完成度は度外視し、満点をつけた。なるべく多くの人々に観てもらい、そして考えつつ体を動かしてみてほしい、心からお勧めしたい映画であります。


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