「蜘蛛巣城」とCGとオレ

久々に黒澤明蜘蛛巣城」を観る。

蜘蛛巣城 [DVD]

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やはり凄いな。霧が凄い。神がかっている。
話はどんどんズレていつものCGが気に喰わねえ論になるのだが、例えばあの白い闇のような霧や、嵐のように飛んでくる矢玉がCGだったとしたら全然ダメだよなあ。CGが写実性を突き詰めていっても、CGがCGである以上永遠に到達できない域は厳然として存在する。CGは永遠に実写には勝てない。ジャッキー・チェンにも勝てない。では特撮には勝てるのかといえば、これは非常にややこしい話でめんどくさいのでいずれそのうち。
ピーター・ジャクソンの「指輪物語」は群集描画ソフト「マッシブ」を開発して大軍勢を描き、たいへん贅沢な映像を見せてくれたものだった。しかし愛する「指輪物語」であっても、オレは「全部モノホンで撮れや」と思わずにはいられないのだ。イヤまあ常識的に考えて大変だろうから、あの映画は別にCGでもいいんですよ。全部じゃないけど相当な大人数だって実際に出ていたよ。ピーター・ジャクソンは相当うまくCGを使ってるよ。
しかし心のどこかでは、「黒澤ならCGを使わず、本当の大軍勢を用意して撮っただろう」と思う。その画が観たいと思う。そしてその場合、「指輪」でCGの戦場を自由自在に駆けめぐったカメラワークはまるで使えないだろう。本物の群集の存在がそれを許さない。本物の群集が、本物であるがゆえにどうしようもなく規定するカメラワークの範囲というものがある。それが「現実」の範囲であり、結果として現実の大軍勢を撮るに相応しいカメラワークとなる。「リアリティー」とは、たぶんそこにあるのだ。逆に言えば「リアリティー」を失わぬ範囲の見せかたであれば、CGを使っても構わない。
「ここで本当に戦争しているのなら、こう撮るしかないだろう。いや、最高にうまくいってもたぶんこういう風にしか撮れないだろう」という考え方を徹底して突きつめたのがスピルバーグの「プライベート・ライアン」だ。もし黒澤明があの映画を観たら、戦闘シーン(だけ)は手放しで褒めるんじゃないかなあ。