「レスラー」感想

すっかり遅くなりましたが、「レスラー」の感想をCinemaScapeに書きましたので転載。

「ランディ “ザ・ラム” ロビンソンほどの大物が貧乏なんて、けんそんだよね にいさん?」
「いや、事実だ」  (★4)


なかなかいい映画でしたな。ここに描かれているもの全ては、我々プオタにとってすでに知っているものばかり、見たことのあるものばかりだ。そのため、映画館では異常にリラックスして鑑賞した。プロレスのある一面を、見事に描いた映画と思う。


同時に、小さくない引っかかりも感じた。言い方を換えればこの映画が描いたのはプロレスのある一面に過ぎず、こんな映画1本観たくらいでろくにプロレスを知らぬカタギの方々に何かを判ったような気になられちゃあたまらねえ、と思ったのだ。我ながらイヤになるほど偏狭な感覚だが、もしお暇ならプロレスをこじらせたおっさんの世迷い言として話半分に聞いてください。


カタギの方々に、ちょっと申し上げにくいことがある。この映画で描かれているのはあくまでプロレス地獄の一丁目にすぎず、下には下がいくらでもあるということだ。この映画のランディは、かつて一時代を築いたスーパースターだ。だが運と才能に欠け、一生芽の出ぬままプロレスにかじりつくレスラーだってゴマンといる。残酷物語なんか、掃いて捨てるほどある。登場人物はレスラーだけとは限らない。底知れぬ地獄はプロレスをめぐるあらゆる局面に存在する。


また、この映画にはプロレスに存在する「天国」も描かれていない。試合の場面からは、プロレスの快楽が周到に注意深く抜き取られている。ランディの絶頂期である80年代は全然描かれず、タイトルバックの週刊ファイト東スポの紙面、アナウンサーの実況のみで処理される。貧乏映画ゆえ仕方ないところだが、80年代のランディも観たかったな。


これらの取捨選択は主題を謳い物語を語る映画ならば当然のことであって、「レスラー」が特に偏向しているわけではない。むしろ取捨選択の的確さがこの映画をシンプルな、愛すべき佳作として成立させておること、わたくしにも理解できる。


そう、「レスラー」は極めてシンプルな映画だ。そしてシンプルであることはこの映画の美点でもあるが、同時に映画というメディアの限界も示していると思うのだ。なぜならプロレスは、映画とは比較にならぬほどややこしい代物だからだ。


映画「レスラー」では、レスラーたちはわざと技を受け、わざと流血して闘いのデフォルメを演じており、でもだからこそ凄いよな、素晴らしいよな、そこには「何か」があるよなという「1回ひねり」の世界が描かれている。公平に言ってこれは褒めるべきところで、そもそも映画が正面からプロレスの「1回ひねり」を描けたことなんか、今まで全然なかったのだ。プロレスはガチですという美しい前提に則った映画が数本あっただけだ。試合前の打ち合わせやジュース(流血)のカラクリを描いたのだって、劇映画では「レスラー」が初めてかもしれない。


しかし現在「3回ひねり」あたりの世界を生きるプオタであるところのわたくしは、なるほど映画もようやくプロレスの「1回ひねり」を描けるところまできたか、と言わざるを得ないのだ。いきなり上から目線での偉そうなもの言いで申し訳ないが、別にオレの気が違ってしまったわけではなく、これは本当に心からそう思うのだ。21世紀にもなって、いまだにプロレスを観ているようなプオタがいかに重層的に、プロレスの様々な階層を同時進行的に味わっていることか。映画がひとつの意志による演出が支配するひとつの作品である限り、映画が我々の生きる「3回ひねり」の世界を描くことはほとんど不可能だろうと思う。


たとえばこの映画のラストシーンはかなり早くから想像がついていたし、そうするしかあるまいとも思っていた。1本の映画としては文句のない、いい終わり方だと思う。それでもオレは、拭えぬ違和感を覚えるのだ。ここで終わらず、みっともなくも否応なしに続いていくのがプロレスなんだよなという、どうにも曲げられぬ確信があるのだ。


プロレスは、終わったことがない。プロレスのラストシーンやエンドマークを見た者はいない。興行の終わりでも、テレビ放送の終わりでも、団体が崩壊する時でさえ我々がそこに見るのは「つづく」である。あるプロレスラーは、「プロレスはゴールのないマラソンである」と言った。構造的にどこかでゴールせざるを得ない映画が、斯様なプロレスの本質に迫ることの困難は想像に難くない。様々な不利を抱え、掴みどころのないプロレスを掴まんと、「レスラー」は健闘したと思う。


健闘のひとつが、ミッキー・ロークの起用だ。これは単にすぐれたキャスティングというだけではなく、映画がプロレスに近づくためのなりふり構わぬ「仕掛け」なのだ。俳優ミッキー・ロークの転落人生なんか本来は映画の外の話であって、内容には一切関係ない。しかしロークを知る観客が主人公ランディとロークを重ねあわせて観ることで、「レスラー」には2つの階層が生まれる。観客はランディの物語とロークの個人史を、同時進行的に味わうことになる。このやや下世話な仕掛けによって、「レスラー」の血中プロレス濃度は確かに跳ね上がっている。この仕掛けにこだわった監督の判断は正しい。


上記のようなことをつらつら考えさせられた上、ブルース・スプリングスティーンの泣き言じみた歌詞には閉口させられたものの、わたくし別段映画「レスラー」にさしたる文句があるわけではない。1本の映画にプロレスのすべてを背負わせるのは、明らかに酷だ。要するにもっとたくさんの、様々な切り口のプロレス映画があればいいだけだ。映画「レスラー」が切りとったプロレスの断面には、愛すべき連中の小さな人生が風に転がっていた。今はそれでいい。