「マイマイ新子と千年の魔法」に関するヤラしいお話

マイマイ新子と千年の魔法 [DVD]

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また「マイマイ新子」の話。しつこくってすみません。
以下は「マイマイ新子と千年の魔法」で実践したアニメーション映画の作り方について、片渕須直監督が語った講演のまとめ。

「マイマイ新子と千年の魔法」の片渕須直監督、講義レポート・・・映画が観客に与える「印象」の力(1) - たまごまごごはん

「マイマイ新子と千年の魔法」の片渕須直監督、講義レポート・・・映画は観客の中で完成する(2) - たまごまごごはん

アートアニメーションの小さな学校「アニメーション監督術」第5回片渕須直氏講演レポート

いやー懐かしいなあ「円谷英二の映像世界」! 初版で持ってますよ。実相寺昭雄が語る「ゴジラ」のカット数の話、よく憶えてるよ。あと軽量アリフレックスで変なアングルに凝ってた実相寺はダメダメで、ミッチェル(ハリウッド黄金期の巨大なカメラ)による横綱相撲こそ至高って話もあったな。いい話だなー。

円谷英二の映像世界

円谷英二の映像世界

で、まあ、おっしゃることは判る… 判るような気がする… 判ったような気になったような感じ… なのだが、この講演、あの映画の半面しか語られてないと感じるのだ。これは建物でいうなら基礎工事の部分だと思うのだ。だってこれだけ読んで「なるほど判ったぜ!」と思い込んで映画作ったら絶対に大ケガするだろう。

マイマイ新子と千年の魔法」が、ある一定の割合の観客を異常な感動の坩堝に叩きこむ映画なのは間違いない。そのマジックはなぜ起こるのか。初見ではまず判らない。だからリピーター率が妙に高い、なんてことになる。オレは現在で4回観ているが、まだ全然判らないので年明けのラピュタ阿佐ヶ谷にも行きますよ。しかし、何度観てもこのマジックの秘密は永久に判らないのかもしれない、という気もしている。

何度も書いたが「マイマイ新子と千年の魔法」はいい映画です。出会えて本当によかった。ありがとうございました。これからも、何度でも観たい。

その上でヤラしい話をすると、オレが興味あるのは監督の描いた「勝算」の正体だ。娯楽映画のセオリーを尽く無視したアニメーション映画が、結果これほど深い感動をもたらした。しかし映画を作った監督は製作過程のどこかで、これでいける、この映画は感動をもたらす「筈だ」と踏んだと思うのだ(ホントにヤラしい話だ)。いったい何の確信があって、このような冒険ができたのだろうか。それを知りたいなあと思う。同時に、やっぱり知りたくないなあという気持ちもある。

観客の心に何と何をどのようにどんなタイミングで放り込んだら、客の心の中で想像力が羽ばたいて化学反応がバチバチ起こって結果深い感動に到達するのか、そんな計算、オレにはほとんど不可能に近いように思える。普通の映画は、もうちょっと積極的に感動させようとする。物語の重要な分岐点だったり、音楽が盛り上がったり、凝ったカメラワークで見せたり、いいセリフを最高のシチュエーションで言ったりする。その感動は「ここだ」と指さすことができる。ここがグッとくるんや、と思う。映画が自分の心に介入した、そのスイッチが見える。

マイマイ新子と千年の魔法」は徹頭徹尾、スイッチがほとんど見えない映画だ。もしかしたらスイッチなんて、どこにもないのかもしれない。いや、どこかにはある筈だ。そんなモヤモヤした思いが観客を映画館に通わせ、何度も何度も同じ映画を観る羽目に陥らせる。

ちなみに、「オレだけが感動する映画」「オレだけが異常に好きな映画」というのも存在するわけです。話題にもならず、傑作とも凡作とも言われず忘れられてゆく映画なんだけど、オレにとっては特別で大切な映画。それはたぶん、その映画がオレだけのツボを偶然、狙わずして突いたんだろうなと納得できるのだ。しかし「マイマイ新子と千年の魔法」は、かなりの高確率で観客を感動させとるわけで、これはやはり偶然とは思えない。まず間違いなく、我々は「狙い撃たれた」んですよ。どういうふうにやったのかは、まるで見当もつかないんだけれど。あのー、「美味しんぼ」で、海原雄山が四万十川の鮎の天ぷらで京極さんを号泣させたことがあったでしょう。「マイマイ新子と千年の魔法」はあれと同じことを、不特定多数の観客に対してやってのけた。だからオレは「日本映画史が、世界のアニメーション史がひっくりかえる大事件だぜ魔法だぜ」と書いたんだ。

片渕監督が何もかも赤裸々に語ることは、今後もないだろうと思う。マジシャンはマジックの種を墓場まで持っていくものだ。それでいいんだ、そうあるべきだ。それにしても、あの監督さんはとんでもないものを作っちゃったなあ… ラピュタ阿佐ヶ谷でお見かけした本物の監督さんは、ごくごく普通の、やさしそうなおじさんに見えたけどなあ…