愛されたい人、ただ愛する人

特に「今」書く意味もないことなのだが、なんとなく。

雑誌というものは生ものの運動体でありまして、生涯ある雑誌を読み続けるという人は少ないだろうと思う。ある雑誌が本当に面白い時期というのは、まず長く続かないからだ。そして、ある時期、ある雑誌と絡みあって生きた記憶だけが残る。

オレがともに生きた記憶を持つ雑誌は、そう多くない。週刊プロレスはその数少ない雑誌のひとつで、オレが週プロを熱心に読んでいた90年代前半に編集長を務めていたのはターザン山本だった。当時、良くも悪くもターザン山本の文章に影響を受けていたことは否定できない。

もっとさかのぼって、プロレスについての書き手で80年代から今に至るまでオレが絶大な影響を受けたのは村松友視井上義啓である。井上さんは故人だが、お二人のことは今も心から敬愛し感謝もしている。そして、ターザン山本についてはここ10年ほど、もう早く死んでほしいと願ってきた。これは言葉の綾ではなく、本当に死んでほしいと思っているのだ。しかし一方で、今さら死んでも遅すぎるとも思っている。

あの時代、彼には確かにある種の才能があった。その輝きをオレは見た、と思う。だからこそ、ここ10年のターザン山本の醜態には心底うんざりさせられている。今死ねと思う。だが一方で、反面教師として非常に大切なことを学ばせてもらったのも事実だ。

ターザン山本をその師匠であった井上義啓と比較すると、あまりにも対照的な生き様に目が眩みそうになる。井上義啓は生涯プロレス者を貫き、プロレスを一方的に愛しぬいて死んだ。見事な、美しい一生だと思う。個人的には、こちらも敬愛するお方だが故淀川長治さんに近い生き方だと思っている。

ターザン山本の一生は全然美しくない。彼は、何よりもまず愛されたい人間だ。愛されない人生に我慢がならない男である。編集長時代は、それでもなんとか成立したかもしれない。しかし、容姿同様に落ち武者となってからはもういけない。現在のターザン山本は愛情に飢えた乞食だ。

両者の生きかたを人生のモデルケースとするならば、目指すべきは断然井上義啓の生きかたである。それを確認するために、今もオレは時々webの「ターザンカフェ」を覗いてみる。そして、読むに耐えない90年代の残りカスのような文章を読み、すぐ死ね今死ねと思うことで、どんなに落ちぶれてもこうはなるまいと自分に言い聞かせているのだ。これだってみっともない話ではあるのだが、オレにはこのような「自分のバランスをとるための踏み台」のような人はそれなりに貴重なので許していただきたいと、斯様に考えておる次第なのである。

殺し 活字プロレスの哲人 井上義啓 追悼本 (Kamipro Books)

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底なし沼 活字プロレスの哲人 井上義啓・一周忌追善本 (kamipro books)

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