ディズニーとぼく

憎悪に身を任せ、とっ散らかった文章を書くとろくなことがない。以前押井守のクソ映画「スカイ・クロラ」を観て怒った勢いそのままにエントリを書き殴ったら、たくさんの罵倒ブクマをいただいたことがあった。なにかしらネガティブなこと、否定的な文章を書く際は、普段以上に注意深く周到でなくてはならない。悪魔のように細心でなくてはならない。しかし、なかなかそうもいかないのが人間であります。先日、忙しいさなかに書き殴った記事「東京ディズニーリゾートのアニメCM」は、誰にだって気に入らないCM、嫌いなCMあるよね? オレの場合はこれですねん、という軽い気分の文章になる筈だった。ところが内に秘めたるディズニー文化への憎悪がチョチョシビリと漏れ出たため、わたくし個人の心の病理があらわになる結果になった。ギョギョギョと驚かれた方も多かったろうと思う。ブクマコメントの数々を読めば、君なに必死になってんの? 涙ふけよ的な空気。なな泣いてへんわい! ということで今回も徒然に、ディズニーとぼくのお話をチョチョシビリ。

子供の頃から、ディズニーのアニメが好きではなかった。なんとなくイヤな印象を持っていた。それはディズニーに限ったことではなく、ワーナーのルーニー・テューンズなども含むアメリカン・カートゥーン全般の根本にある基本文法が、オレには受け入れ難かったからである。

いちばん判りやすいのが、ドナルドダックだろうと思う。あの神経症的な短気さ、イライラからの癇癪を爆発させる有様、子供の頃のオレはけっこう本気で不快に感じていたものだ。カートゥーンのキャラクターたちは総じて極端なデフォルメがなされているのだが、特に性格づけのデフォルメがきつすぎておれには耐え難い。みんな揃って性格悪くて、時折ひどく邪悪な表情をしてみせる。時には媚びたような笑顔を浮かべることもある。ここ間違えないでほしいのだけど、キャラが媚びているとオレが勝手に感じたのではなく、本当に媚びて笑うという演出がきちんとなされているのである。ミッキーマウスのしたり顔も、実に気に入らなかった。

ミッキーマウスにはグーフィーという犬の友人がいるのだが、それとは別にプルートという犬をペットとして飼っている。同じ犬でも、グーフィーはミッキーの友人で、プルートは飼い犬なのである。差別待遇なのである。こういう設定の杜撰さにも辟易とさせられたものだ。そもそもミッキーの擬人化とプルートの擬人化はデフォルメのレベルが全然違うし、ネズミのミッキーと犬のグーフィーが肩を組んで歩けるあの世界の縮尺もよくわからない。様々な違和感はあったものの、最終的にはマー葉っぱでラリったやつが思いついたマンガなんだから、ということで自分を納得させていたのだ。ディズニーの狂気性を探るという視点ならば、オレはディズニーアニメを楽しめるのかもしれない。アメリカのカートゥーンで例外的に好きなのはMGMの「トムとジェリー」で、これは幼少の頃にテレビで繰り返し再放送されていたこともあるが、暴力的な内容の割に非常に誠実に丁寧に作られており、ディズニーのような邪悪な印象がなかったからだろうと思う。トムとジェリーの間には信頼をベースにした緊張関係があり、そこには愛すべき人間味を見出すことができたのである。

とはいえ、ダンボや白雪姫、ファンタジアなど、ディズニーの長編には好きな作品だってあったのだ。しかし伝説的アニメーター集団「ナイン・オールドメン」が現役を退いて幾年月、70〜80年代のディズニーアニメのクオリティは地に堕ち、クソアニメスタジオに成り下がった。この時期は、アニメよりも各地でディズニーランドを作っていたのだろう。ディズニーアニメは1991年の「美女と野獣」でCGを導入し復活したが、あからさまなデート映画路線に生まれ変わっていた。当然ながらこの路線変更も、オレは気に入らなかった。「ライオン・キング」とか、ホントにひどかったと思うよ。

思えば問題の「TDRのアニメCM」も、91年の「美女と野獣」に端を発するディズニーアニメのデートムービー化、それに伴うディズニーランドのデートスポット化という、大きな因果の流れの中にある歴史のヒトコマなのである。ことここに至って自前のアニメを作ることさえ放棄したディズニーは、表向きのルックを美辞麗句で取り繕ったまま、さあ若者よセックスしよう、ガンガンセックスして未来のディズニージャンキーを生めよふやせよ! とのたまったわけだ。これに嫌悪を感じることが童貞イズムの潔癖症であるなら、マーまさにわたくしがそうなんであろう。それでいいよ!


性格の悪さが顔に出ているルーニー・テューンズのキャラクターたち


天敵のネコに犬のプルートをけしかけるネズミのミッキー。道理も常識も縮尺も何もかも狂っており、狂気なくして創造なしと考えさせられる