「わが青春のアルカディア」

わが青春のアルカディア [DVD]

わが青春のアルカディア [DVD]

十数年ぶりに「わが青春のアルカディア」を観た。公開当時、オレは劇場には行かなかった。子供の頃にテレビ放送で一度、20代半ばにビデオで一度観た筈だが、場面の断片しか記憶になく、ストーリーは殆ど覚えていなかった。以下、CinemaScapeに投稿した感想。

一時代を築いた「松本ロマン」の終焉に立ち会う (★2)

グダグダの脚本と演出により、ずいぶん間延びした甘ったるい映画になってしまった。

もともと松本零士の世界とは、半径5メートルの小さな世界を宇宙規模にスケールアップし、刹那の感傷で死生観や人類史を語るという、有り体に言ってしまえば「ひとりよがりの美学」によって支えられている。その最高の成功例が劇場版「銀河鉄道999」で、あの映画ではひとりの少年の成長のためだけに数多の人々が死に、惑星が崩壊し、列車は銀河を横断する。あらゆる御都合主義は、少年の青春を描くためだけにあった。だから傑作となり得たのである。

「わが青春のアルカディア」は、最初から半径5メートルをはみ出ている。描くモチーフへの照準を失ったまま、いつもの調子で闇雲に拡大された松本宇宙。それはどこか空虚で薄っぺらく、何より我々観客にとって不可解なものだ。そもそも松本零士の大ロマン文体によるモノローグやナレーション、説明無用とばかりに無条件に熱く感傷的なキャラクター同士の交流は、いきなり見せられてもギョッとする類いのものだ。それをすんなりと受け入れてもらうためには、理屈抜きで情感に身を任せロマンに感涙する「松本モード」に観客を誘導しておかねばならないのだ。この映画は、そこのところで完全に失敗している。

ハーロックが恋人マーヤに会うために片目を失い、なお恋人に近づくために敵の射程内に身を晒すか、どうするかという場面なんかドリフのコントみたいだ。恋人に会うことの切実さ、彼女への思い、敵の銃撃の恐ろしさが一切描写されていないから、ハーロックの行動は不可解としか思えず、思い入れたっぷりのモノローグも陳腐に聞こえてしまうのである。観客は映画についていけないまま、銀幕で松本ロマンが寒々しくただ滑ってゆくのを眺めるだけだ。

日本中を席巻した松本零士アニメブームは、この映画直後のテレビシリーズ「わが青春のアルカディア 無限軌道SSX」で終焉を迎える。松本ロマンが天下を取った時代があったなんて、今考えると夢のようだ。少なくともこの作品では小松原一男の作画による、死ぬほどカッコいいハーロックが山ほど見られる。それだけでも眼福とすべきであろう。ありがたや、ありがたや。

映画の出来はアレとして、しみじみ懐かしいなと思ったのは70〜80年代のアニメ映画特有の「大作」感だった。バンバンテレビでCMを打ち、夏休みの子供たちが訳も判らないまま映画館に詰めかけ、そこで何かを目撃する… ブームとなった「ヤマト」や「ガンダム」、そして「幻魔大戦」「少年ケニヤ」などの角川アニメ。オレ個人にとっては80年の「火の鳥2772 愛のコスモゾーン」なんかがまさにそうだった。一大イベントに駆けつけた思春期以前のお子たち、そのひとりであるボクちゃんはまだ批評することを知らず、否定することも知らず、銀幕で出会ってしまった変テコで巨大な、理解しきれぬ「何か」を胸に抱えたままモヤモヤと夏休みを過ごしたものだ。必ずしも、その体験の答え合わせをする必要はないのかもしれない。後に大人になってから再び観た「火の鳥2772 愛のコスモゾーン」は、そりゃもうひどい映画だった。しかし年をとってオッサンになっちまうと、あの知恵熱のような、熱に浮かされた夢のような、モヤモヤした感覚が妙に懐かしく感じられるんだよなあ。

銀河鉄道999 [Blu-ray]

銀河鉄道999 [Blu-ray]

幻魔大戦 [DVD] 少年ケニヤ [DVD] 火の鳥2772 愛のコスモゾーン [DVD]