あんまりいただけない「人はなぜ格闘に魅せられるのか」

人はなぜ格闘に魅せられるのか――大学教師がリングに上がって考える

人はなぜ格闘に魅せられるのか――大学教師がリングに上がって考える

著者は大学の英語教員で、本人の記述を信頼するならば、まあパッとしない中年男だ。彼が大学の向かいにあるMMAジムに入門してからの様々な体験、人類特にオスにとっての格闘=決闘についての考察、暴力を避けてきた半生の回想、MMAの練習における他者との関わりや得た知見、など、など、などが、まー出鱈目な順序で書かれている。
おじさんがジムに通って思わず回春しちゃうさまは微笑ましく、夢枕獏の傑作「空手道ビジネスマンクラス練馬支部」的な楽しさはある。また、著者は当初「大学教員のインテリがMMAに入門しちゃう」ギャップの面白さで著作を売ろうと目論んでいたのだが、ジム通いをしている間に映画「ウォーリアー」(2011)や「闘魂先生 Mr.ネバーギブアップ」(2012)が続々と公開され、ピカピカの企画が1頁も書かぬうちにすっかり色あせてしまう。しかし、それでもやるのだ! と草MMAの試合に出場し、過酷な現実と向かい合うあたりがクライマックスとなっている。ま、映画のようにうまくはいかないよな。

上記のような面白さはあれど、オレはこの本、大いに不満だった。著者は悪気のない男で根性があって正直で、ある程度の好感は持てるのだが、ものの見かたが一面的で、決定的に幼い。要するに、思索の幅が狭く底が浅いのである。

著者にとって、格闘の源流は決闘である。ピストルもって10歩歩くアレだ。格闘の目的とはヒエラルキーの中でオスの優劣を決することでアール、それが現代MMAの本質なのでアール。伝統武術には荒唐無稽なものが多く、MMAで通用しない技術を後生大事に信じこんでる流派が多くて笑っちゃうネー。極真空手創始者大山倍達は小太りの中年男で、牛殺しはインチキにもほどがあるヨネー。 なにコラッ! タココラァッ!

呆れたことにこの著者、伝統空手を学ぶ親友と議論になり、MMAのスパーリングを庭で敢行、何度もテイクダウンしては関節を極め、伝統空手が有効ではないという宇宙の真理とやらを教えてさしあげようとする。なにしろこの場面は醜くて、吐き気を催した。視野の狭さもここまでくると犯罪的だと思った。こいつ、ただのUFC信者なのだ。UFCが形作った現代MMAにのみ真実があり、それ以外の伝統的な格闘技や武術は絵空事、実用性のないフィクションなんや! というわけだ。MMA普及前のアメリカでは、こういった思いこみはボクシングファンによくみられたものだ。言うまでもなく、こいつの考えは宇宙の真実などではなく、こいつの信仰なのだ。UFCはひとつの競技であって、ケージの中で有効な技術がいつでもどこでも必ず通用するわけではない。

格闘の源流を近代の儀礼的な決闘にのみ求める発想も、浅くてびっくりするんだよな。著者の思考は明らかに著者が育った文化圏や自らの体験によって限定されており、その狭さには驚かされる。肉体による闘争なんて有史以前、ほとんど生命の発祥から存在するものだ。ヒトだけではなく、あらゆる種が闘っている。「2001年宇宙の旅」では武器格闘の発祥が描かれた。古代ローマコロッセオにおいてさえ著者の好きな一対一の決闘は闘技会の一場面にすぎず、現実には一対多もあれば多対多、対動物戦などもあったわけだ。状況は無限にある。もちろん戦争もある。先人たちが想定し向き合ってきた世界の広さ豊かさ複雑さに著者は最後まで気づかず、「昔の人はバカなのだ。だって昔の人だから」と繰り返し続ける。バカはお前なのである。インテリが聞いて呆れるよ。

著者が友人を何度もテイクダウンできたのは、友人が伝統空手の技術しか使わないことを著者がもともと知っており、逆に友人がMMA技術に疎いという知識量の非対称性があったからだ。スパーリングの舞台がレスリング技術を使いやすい庭の芝生の上だったことも、著者を有利にした。それにしても文弱の徒を自認しつつ、自分と異なる信仰を持つ友人に対してこれほど無神経になれる著者には驚かされる。やっぱり一神教は危なっかしいデスネー、と思った次第。

空手道ビジネスマンクラス練馬支部 (文春文庫)

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ウォーリアー [Blu-ray]

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