同情の拍手はいらない 「シェイプ・オブ・ウォーター」

アカデミー賞が発表されたから、というわけでもないのだけど「シェイプ・オブ・ウォーター」を観てきました。あんまり気に入らないんだろうなという事前の予想が当たってしまった。以下の感想では結構悪口書いてますが、まあアカデミー賞とったんだからいいだろう。ネタバレありますのでご注意を。

よせ、野暮になる。(★2)


ギレルモ・デル・トロさんがいい人であるのは過去の作品を観れば明白だ。また、怪獣怪物を愛してやまぬ筋金入りのオタクであることもよく知られている。この映画で彼は、怪物への愛情を臆面もなく唄いあげている。魑魅魍魎渦巻くハリウッドでキャリアを積み、ありとあらゆるタフな局面を経験したであろうヴェテラン監督が、これほど純粋で子供っぽく美しい愛情と願望を忘れずに抱き続け、しかも熟練の手捌きでお伽噺のような映画を作る。これは誰がどう考えてもいい話だ。しかし、通り一遍のいい話はここまでなのだ。


怪物が愛し愛されうる、そうあってほしいという願望充足の物語に、作り手と観客が気持ちいい以上の意味を見出すことは、正直言ってオレには難しい。この映画と深夜テレビのお下劣ハーレムアニメとの本質的な違いが、オレには判らないんだ。願望充足が悪いわけでは全然ないし、ハーレムアニメだっていつでもウェルカムなんだけど、こと怪物が登場する映画がそのへんのぬるいヴォルテージであることを我慢できないぼくのいつもの病気の話なので気にしないでいただきたい。


掃除婦イライザの周囲は、マイノリティのドリームチームだ。声を出せないイライザは、寂しくオナニーでもするしかない哀れな中年女というわけだ。ところがしばらく映画を観てると、そう孤独でもないんだよな。彼女の周囲には、物わかりのいい友達がゴロゴロいる。タダ券くれる映画館のオヤジ。遅刻しても掃除サボってもフォローしてくれる同僚のおばちゃん。ゲイゆえ妙な気を起こす心配のない安全な禿。言うちゃ悪いけど、案外お幸せに見えなくもない。なんなら中年男のわたくしの方がずっと孤独だし、オナニーだって抜かりないのである。わたくしの見立てではイライザさん、むしろオナニーが足りてないから人生つまらないんじゃないですかね。余計なお世話ですね、すみません。


呆れたのが、猫を喰われた禿があっさり怪物に理解を示す場面だ。オレが猫をやられたら、相手が怪物だろうが人間だろうが意識をなくすまで殴ります。禿のアレは理性的態度などではなくて、ただ猫に愛情がないだけだ。怪物の怪物たる部分が垣間見える重要な瞬間が、禿のズレたリアクションで台無しだ。


悪役たるストリックランド氏については、彼もまた不幸な男であるとの描写が丁寧に積み重ねられる。しかしですね、そんなもん指ちぎれた時点で不幸でしょうよ。あれ労災適用されるのかね。一方で、彼の背負う正義(それがどんなに歪んだ正義であっても)はろくすっぽ考慮されない。ちょっと考えていただきたいのだけど、いくら冷戦時代のバカ軍人だって、世界で一個体しか発見されていない新種の生物に対して電流イライラ棒でストレス解消しますかね。極めて安易な悪なんだ、悪や弱者の造形の安っぽさが、怪物とイライザに生じた愛情さえも地べたに引きずり下ろしているんだ。


これは好みなんだけど、ビジュアルも大いに不満なんだよな。それなりに考えられている赤と緑の色彩設計は、場面が夜ばっかりで部屋も薄暗いためあんまりパッとしない。セットばかりでジャン=ピエール・ジュネみたいな箱庭感が息苦しい。映画全体のルックが、お伽噺ですよ作り話ですよ、早い話がウソなんですよとゲロっているようだ。バスの窓の水滴など見事な瞬間もあるにはあるんだけど。


お話は、おかしなところだらけだ。なんで怪物を海に帰す日を、水門が開くかどうかも定かではない10日に決められるのか。そもそも水門ってなんだ、海岸ですぐにリリースすべきだ。「E.T.」ばりの治癒能力、なんで監禁暴行喰らった時には一切使わなかったんだ。イヤしかし、これら些細な辻褄はオレだってどうでもいいとは思っているのだ。いちばんの文句は、願望そのまんまに怪物とイライザの愛をぬけぬけと成就させる、この映画の在り方が気に入らねえんだ。たとえそれが禿ナレーションによる夢、願望であったとしてもだ。怪物が出るからお伽噺なんじゃない、怪物がたやすく愛を得るから荒唐無稽なんだ。野暮にも程があるぜ。


美女と野獣」なんて生ぬるいものを仮想敵にしてる場合じゃないのだ。1933年の「キング・コング」でも、1954年の「大アマゾンの半魚人」でも、怪物は人間に殺される。人間は、怪物を、殺す。殺すのが人間なのだ。先人たちはそこを誤魔化さなかった。「大アマゾンの半魚人」なんて全然アマゾンじゃなくてフロリダでロケしてるきわもの映画のくせに、我々人類の悪を敢然と引き受けたんだ。こういうのを粋って言うんだ。


「死んだほうがいいかもしれない。所詮彼は怪物だ」


1965年、「フランケンシュタイン対地底怪獣」のラストの台詞だ。どんなに良心的な学究の徒も、戦争に心を痛めるヒューマニストも、怪物のために最善を尽くしてなお、人は自らの悪を引き受けなくてはならぬ。とりかえしのつかぬ世界で手を汚し、罪を背負って生きるのが人間であり人類であって、オレもあなたも君もお前も両手は血だらけで、辛くて苦しくて、どんなに悔やんでもすでに手遅れで、でも生きていくんだ。知らぬ存ぜぬは許しません。


ここにあげた先人たちの映画は、いずれも心に苦い大人の映画だ。かたや「シェイプ・オブ・ウォーター」の本質は子供のお伽噺、要するにお子様ランチだ。やはり蜂蜜をぶちまけた如く甘かった2005年ピーター・ジャクソンの「キング・コング」によく似ている。それにしても怪獣映画どころか「風の谷のナウシカ」漫画版だって100回読んだに決まってるにもかかわらず、斯くも無邪気な願望の映画をハリウッドの魔窟で作ってしまうデル・トロさん、ただのいい人でしかないわけがない。デル・トロさん本人がひとりのトチ狂った怪物であり、この映画が「怪物であること」を直視した作品であるとは、やはりオレには思えないのだ。

2005年ピーター・ジャクソンの「キング・コング」、当時のわたくしの感想。ご参考までに。