スピルバーグ翁と遊ぼう 「レディ・プレイヤー1」

公開初日に「レディ・プレイヤー1」を観てきた。前座に「パシフィック・リム:アップライジング」を観たのだけどこれがダラダラ冗長な映画でガッカリしたので、直後に観た「レディ・プレイヤー1」は非常に楽しめたよ。

以下感想ですが、決定的なネタバレを含むので未見の方は絶対に読まないように。予告編にも一切出てない大ネタがあります。

スピルバーグは地球に残る人 (★3)

アメリカ産なろう系ラノベを御大スピルバーグが映画化。まあ要するに「ソードアート・オンライン」の亜種、仮想世界で英雄になろう小説といった内容だ。様々な有名キャラクターの版権使用許諾を死ぬ気で取りまくったことが大きな売りになっている映画だが、じゃあみんな大好きガンダムや金田のバイクが登場して嬉しいかといえば、これは実際に劇場で観てみると、自分でも意外なほど嬉しくなかった。理由は後で述べる。


第一の試練はチキチキマシン猛レースで、死ぬほど面白い。この映画最高の見せ場だ。デロリアンや金田バイクが走るから面白いわけでは全然なくて、ただ単に迫力とスピード感あふれるコンテが素晴らしいからに尽きる。特に見事なのがキング・コングの登場場面だ。しつこいようだが、これとて別段コング登場が嬉しいわけではない。デロリアンを猛スピードで運転する主人公アバター、見上げて驚きの表情。主人公の主観ショットではるか前方のエンパイアステートビルキング・コングのシルエット、そのままパンダウンしてコースを走るライバルたちの車列、しかしすぐにパンナップして再びコング、別のビルへ飛び移る。ここ最高。ここ最高です。コングから一旦レースに視線を降ろしておいてから、もう一度思わずコングを見上げてしまう、カメラが二度見するのである。主人公の心理とシンクロした主観カメラが、レースゲームの佳境でキング・コングが乱入するという事態の異常性、仮想世界オアシスが最高にファッキンクレイジーな世界であることを余すところなく表現している。映画史に残る二度見ショットのひとつであろうと思う。


残念ながら、これをピークとして以降はだんだんテンションが落ちてくる。第二の試練は「シャイニング」のオーバールック・ホテルをステージにしてギャグ満載、楽しすぎてオレなんか小躍りしたものの、楽しいだけで肝心のモンスター、ジャック・ニコルソンは拝めない。ヨボヨボでもいいからここは出ていただきたかったな。なんならスティーブン・キング本人が出てくれてもよかった。


有名キャラ総進撃に嬉しくなるどころかどこか空しさすら感じてしまったのは、彼らが徹底して固有の文脈から切り離されているからに尽きる。つまり、ホーガス少年を抜きにしたアイアン・ジャイアントという存在に対して、どういう態度をとればいいのか判らず戸惑うのである。エメット・ブラウン博士を抜きにしたデロリアン、そりゃただのスポーツカーだ。連邦の白い悪魔RX-78は動いた途端にモビルスーツらしさを失う。乗りたいか、鉄雄! 俺用に改良したバイクだ。ピーキーすぎてお前にゃ無理だよ。欲しけりゃな、お前もデカイのぶんどりな。


この映画に登場する様々なキャラクターやメカは、ガンダムガンダムに、デロリアンデロリアンに、見た目だけは似ているものの本質的にはまったく関係のない「アイテム」或いは「アバター」にすぎないのである。これが空しさを感じざるを得ない理由だ。そもそも本来ならRX-78はセル画でなくてはならない筈だ。「機動戦士ガンダム」は手書きのセルアニメだからだ。サンライズに外注すれば激安で済むものをこの映画は3DCGで描き、スタントマンのような振り付けをする始末。バルカンも撃たなきゃ、メインカメラをやられもしない。同様に、キング・コングもモノクロのストップモーションアニメにすべきだったと思うのだ。


映画史の中でこの作品は、2Dと3D、実写とCGと絵がチャンポンになったとしても誰も文句言わないどころかみんな喜ぶという極めて珍しい企画だったのに、一律にILMのCGにしてしまった。これは手抜きであると、わたくしは思う。それからどうでもいいけど「アイアン・ジャイアント」だけ1999年公開の比較的新しい作品なのはなぜなのか。劇中こそ冷戦時代だけど、エヴァンゲリオンなんかより後のアニメだよ。


さてボンクラは仮想世界オアシスで英雄となり、映画はめでたしで終わるのだけど、ここでスピルバーグ先生がジワリと出してくる思想、これにも引っかかりましたねえ。いわく、オアシスは現実からの逃避を目的に作られたが、やっぱり愛する人のいる現実は素晴らしいものなんだ。だから火曜と木曜はオアシス定休な。マジかよ!


これにはまったく同意できない。これはいわゆる「地に足ついた大人のスピルバーグ」ってやつだ。若い頃に撮った「未知との遭遇」のラストシーンでは、主人公がマザーシップに乗っちゃう。後年スピルバーグは考えを改め、「家族を捨てて宇宙人と一緒に地球を去るなんて、今や家族持ちの自分には考えられない行動」であるとのたまわった。ちょっとガッカリした覚えがある。言うまでもなく、断然宇宙船に乗って旅立つべきなのである。


ゲームは1日1時間、現実に軸足を置いてこその人生なんやで。こういう主張は至極真っ当なご意見に聞こえる。しかし実際はこの映画、そういう話にはなってない。主人公はオアシスで恋に落ち、生きる理由を発見するからだ。ただし現実での容姿を気にして悩むのは、断然主人公側でなくてはならないのではないか。アルテミスちゃんアバターより現実の方がカワイイじゃねえか。ふざけんなよ主人公! お前こそ本当は醜いデブのキモオタであるべきなんだからな!


VRは現実からの逃避と言われるが、現実主義者こそ理想を夢見ることを怖れて現実で妥協してんじゃねえの、などと言いたくもなる。先に触れた「ソードアート・オンライン」には、「現実世界と仮想世界の違い」とは「情報量の多寡だけ」というセリフがある。そうであろうと思う。ジェームズ・キャメロンの「アバター」は、人生の勇気ある選択としてアチラの世界に行っちまってもいいんだぜと若者の背中を押してくれた。諸問題はテクノロジーで解決する。キャメロン先生は本当に男前だ。それに比べるとスピルバーグはやはり20世紀の偉大な天才であって、この作品が彼の限界を示してしまった感はあるものの、しかしこんな映画を作る71歳のコンピュータおじいちゃんは他にいない。いろいろ文句はあれど、どうもごちそうさまでした、と言わせてもらいたい気分なのです。