フィクションにおける「思う壺」問題について

小説マンガ映画にアニメ、テレビドラマはほとんど観ないが、わたくしが摂取するフィクションのおよそすべてにおいて気にしているというか、考えてしまうというか、どうにも気になってしまうある基準が自分の中にある。それはここ十数年でだんだんハッキリしてきたものだ。この折にそのことを書こうと思うのだけど、今これを読んでいるそこのあなた、あなたはそんな知らんおっさんのどうでもいい内心など興味ないと思われることでしょう。それも当然だ、読まなきゃいい。でも書くのだ。

簡単に言えば、フィクションの中で(多くの場合)肩入れすべき主人公格の人物が、他者の「思う壺」になっているさまを見ると気になる、イライラする、時に作品自体を嫌いになる、まれに作者まで嫌いになる、ということがオレにはよくあるのだ。「思う壺」を「良しとする」作品を、好きになれないのだ。

記憶の中で最初にそう思ったのは1987年、中学生の頃に観た映画「アンタッチャブル」だったと思う。みんな大好きオレも大好きブライアン・デ・パルマ監督の、超カッコイイ映画である。しかし当時のオレには少々腑に落ちない違和感があった。もちろん中学生のわたくしなんてもう完全にクルクルパーだったからその理由はよく判らなかったんだけど、今なら判る。主人公エリオット・ネスの生きかたが気に入らなかったのだ。

ご存知だろうが「アンタッチャブル」は禁酒法時代、密造酒で儲けていたアル・カポネをとっ捕まえるお話だ。しかしよく考えなくても、禁酒法なんて悪法も悪法である。ネスは財務省の役人で、禁酒法がクソであると知りつつ「これは国の法律だ」と言いながら密造人や密売人をしょっぴこうとする。映画の結末、禁酒法が廃止になると記者に聞いたネスは「一杯やるよ」と答える。こいつは禁酒法をどう考えているのだろう、この男が拠って立つ正義はいったいどこにあるのかと中学生のオレはうっすら思い、しかしうまく言葉にできなかった。

ネスの中には信じる正義もなければ、自分だけの動機も、やむにやまれぬ衝動も在りはしないのだ。自分の生きかたを法律に丸投げし、人間の精神を放棄した犬なのだ。考えることを辞めた豚なのだ。こんなロボット小役人、まったくもって国家権力の「思う壺」なのである。禁酒法があるから酒はダメ。禁酒法がないなら飲みまひょか。コンニャク、コウモリ野郎、手のひら返し、権力の奴隷。こんな野郎は許せねえ気に入らねえ、ブン殴ってやる! というようなことをオレは映画を観た後、数年がかりでジワジワと理解した。一方、悪役のアル・カポネは誰の「思う壺」にもならない。徹底して自分のルールで生きている。この映画の真のヒーローは断然アル・カポネだ。オペラに感動して涙を流す、感受性豊かで真心あふれる男なのだ。気に喰わんやつはバットで撲殺、あしたはホームランや!

ちなみに今のオレはこれほど極端な意見ではない。劇中にはネスが法を踏み越える場面(フランク・ニティ殺害)もあるし、それほど一面的な映画だとは思ってない。ただ妙に印象に残る不思議な作品、いろいろヘンな映画だったなーと思っている。まあそれはそれとして、主人公が他者の「思う壺」になっているならば、もう物語そのものが信用ならねえんだ。ついていく気を失くしちまうんだ。そんな気分は年々強くなってきて、自分の中に一定の割合を占めるようになった。

近年、特に「思う壺」すぎてこりゃあ全然ダメだと思ったのがアニメーション映画「心が叫びたがってるんだ。」である。この映画に登場する青少年はどいつもこいつも大人の「思う壺」で、オレなんか自宅でのDVD鑑賞だったこともあり思わず「思う壺やないかーい」と声に出してしまったほどだ。連中、いらんことをやらされていることに疑問を持たなさすぎなのだ。学校や教員からすりゃあ、極めて扱いやすいガキどもであろう。青春映画の形をとっているものの、ここで描かれているのは大人の「思う壺」の範囲を決してはみ出さない「青春」なのだ。気に入らねえ、まったく気に入らねえ。ペッペッ。

少年少女を扱うことの多い媒体であるマンガやアニメでは、学校・部活・教員の「思う壺」になっている若者を頻繁に見かけることになる。「思う壺」になっていること自体に気づかず、青春してると思い込んでて、まあそれも君たちなりの青春なんだろうけど、ぼかー願い下げだなーと思うことが多い。中でも部活動なんて酷い。オレなんかそもそもなぜ学校教育に部活動というものが存在するのか、意味が判らない。納得できる説明を聞いたことがない。

京都アニメーションの超絶美麗アニメ「響け!ユーフォニアム」第1期第2話には、年度アタマに吹奏楽部にやってきた陰湿なメガネ顧問が右も左も判らぬ生徒たちを誘導してまんまとカタに嵌める場面がある。生徒らが顧問に感じた戸惑いや反感は話数が進むにつれてみるみるなかったことになり、生徒たちは顧問の言うことを盲目的に信じこみ、ひたすらコンクールを勝ち抜くことが唯一絶対の価値なのである、それしかないのであるという「常識」が共有されてゆく。なるほどこれが顧問センスというやつか。実に気に入らねえ、いたく気に入らねえ。しかしこれが部活動の本質に触れた描写であることは明白だ。

人間をブリンカー(遮眼革)をつけた競走馬扱いする斯様ななりゆきは、なにもこのアニメだけのことではなくて、これは「教育」という営みがどうしても持たざるを得ないダークサイド、コインの裏側なのだと言うこともできる。中でも存在意義すらよく判らぬこの部活動という土人の宗教は、このダークサイドを煮詰めた地獄に陥りやすい。少女マンガの「青空エール」(青空エール コミック 1-19巻セット (マーガレットコミックス))とかねえ、ぼくはホントどうかと思ったな。余計なお世話ながら、君たちもう少しこの世の仕組みを疑ったらどうかねと言いたくなった。

一方で、たとえば梶原一騎のマンガ「巨人の星」はいまだ世間的には根性至上主義のアナクロニズム、理不尽極まりないスパルタ教育礼賛マンガだと思われている節がある。これは実に浅はかな解釈と言わざるを得ない。「巨人の星」とは日本の敗戦をモデルとして、失敗した教育の犠牲となった若人の魂の彷徨を描いた悲劇なのである。とりわけ凄まじいと感じたのが星飛雄馬アームストロング・オズマの会話だ。2体の野球ロボットがいかに人生のすべてを野球だけに捧げてしまったか、どれほど他者の「思う壺」になって生きてしまったかを確認しあう、地獄の底から響いてくるような鬼気迫るやりとりだった。


このあと飛雄馬は歪んだ教育のために失われた自分の青春を、日高美奈との出会いと別れを経験することでついに獲得するのだ。それにしてもこのような視点を内包するスポーツマンガを、梶原一騎はなんと1960年代後半に発表していたのだから異常な先進性だ。これほど誤解され、侮られている作家も珍しい。今すぐノーベル賞を授与すべきだ。

黒澤明の映画「姿三四郎」では、教育の理想が描かれる。師の矢野正五郎に戒められた三四郎が池に飛び込み、杭にしがみつく。池に浸かって夜を明かした三四郎は、夜明けに開いた蓮の花を目撃する。無垢の美しさに心を奪われた三四郎が「先生!」と叫ぶ。即座に座敷の障子がバーン! と開き、矢野正五郎や兄弟子、和尚が縁側に飛び出してくる。

ポイントはふたつあり、まず蓮の花は、師が用意したものではなく三四郎が勝手に見つけたものだということ。矢野正五郎は、なんら恣意的な誘導をしていない。池に飛び込んだのも三四郎なら、蓮の花を見出したのも三四郎だ。ゆえにその感動は自分だけのものであり、終生忘れることがない。次に、三四郎の叫びに応じて障子が即座に開いたという事実。要するに矢野正五郎は弟子の身を案じ、明け方まで眠らずにずっと起きていたのだ。安易な手助けはせず、弟子が自分で悟るのを辛抱強く待っていた。なんという愛情だろうか。オレは驚愕した。三四郎にとって矢野正五郎は、生涯に一度しか出会えない師だったのだ。この師弟の美しさを、しかしこの映画は言葉や台詞では一言も説明せず、ただ映像で見せるのみ。「教育」も描きようによって、これほど美しいものになりうる。それは、ここに他者の「思う壺」の入り込む余地がないからだ。

他者の「思う壺」に嵌まらない自由な若者を描く今どきのアニメも、もちろんある。今年のはじめに放送された「宇宙よりも遠い場所」では、主役の4人の女子高生が、くだらない世間や学校の思惑から大きくはみ出る旅に出る。これ見よがしに反抗するでもなく、ただ目線の高さ、志のスケールの差で鮮やかに飛び越えてみせるのがいかにも現代的だった。ハナから学校なんぞに何も期待していないのが清々しい。わたくしの如きおっさんはすぐ青春の殺人者と化してテロリズム敢行、バットで撲殺しか思いつかないもんだから、「宇宙よりも遠い場所」には本当に心洗われたものでしたよ。