ショック映画としての「八つ墓村」

東京に雪降ってクソ寒く、仕事は苦手分野で四苦八苦、競馬は年明けから絶不調、CinemaScapeもアクセス障害が直らないとあって、ここしばらくはどうにも背中の煤けた毎日を過ごしております。半年ほど寝っ転がって「アラビアンナイト」を読むとか、そんな胸のすくような文化的活動がしたいものであります。

先日、友人との喫茶店トークの中で怖い映画の話になった。幼少期に観てトラウマとなったのは断然「八つ墓村」だなー、なんて話をしてたら久しぶりに観たくなっちゃって、DVDを借りてきた次第。

あの頃映画 「八つ墓村」 [DVD]

あの頃映画 「八つ墓村」 [DVD]

1977年公開の野村芳太郎監督版「八つ墓村」、当時5歳のオレは劇場には行ってない。数年後、小学生になってからテレビ放送で観たのだ。すでにドイルや乱歩を読んでおり、ガキながらいっぱしの探偵小説好きのつもりだった。市川崑石坂浩二金田一ものもテレビで数本観ていた筈だ。なぜなら「金田一耕助を寅さんの人がやってるのか、似合ってないなあ」と思った記憶があるからだ。とにかく山崎努が死ぬほど怖くて、しばらくは夜中に便所に行くのもイヤになったものだった。

その後も数回観ている。市川崑のトヨエツ版や、テレビドラマ版の類は観たことがない。今回は十数年ぶりの鑑賞だったが、野村芳太郎の「震える舌」や「鬼畜」をすでに観ており、何が社会派だコラ、何が名匠だコラ、イヤなイヤなイヤな映画をノリノリで撮ってるやんけ、あんさん鬼畜やホンマモンの鬼畜監督やでえ、ということも知っている。

「鬼畜」の感想  「震える舌」の感想

今回気づいたんだけど、監督・野村芳太郎、脚本・橋本忍、音楽・芥川也寸志というトリオは1974年の「砂の器」と同じ布陣なんだな。情緒で押して泣かせよう泣かせようとした「砂の器」の反動からか、「八つ墓村」の開き直ったような大暴走は凄まじい。ホラー映画でもスリラー映画でもなく、これこそ「ショック映画」と呼ぶにふさわしいエクストリームだ。まさか「八つ墓村」観てない日本人はいないと思うので、ネタバレ気にせず書きますよ。

アバンタイトルは戦国時代、落武者たちの敗走が描かれる。嘘みたいな断崖絶壁に、幾筋もの滝が流れ落ちている。落武者たちは絶壁の高所に張りつき、「クリフハンガー」みたいな状況になって進んでいる(なぜだ)。見たところ、命綱もろくにつけてないようだ。これ風景の壮観さでなんとなく見ちゃってるけど、相当ヤバい撮影だと思うよ。

空港で働くショーケン。この映画、現代劇として作っているのも凄いんだよな。岡山の山奥なんかキモい殺人だらけのクソ田舎だぜ、と言ってるに等しい。まあ今なら70年代も懐かしさの対象なので、当時の生々しさはいくらか薄れている。

大阪の弁護士事務所。ショーケンに会うために、田舎からやって来たおじいちゃん加藤嘉。ご対面して弁護士が席を外し、さーこれから話をするのかと思いきや、いきなりドプフォウとゲロ吐いて絶命。まだひと言も喋ってない。ショーケンも唖然。なんとなく覚えてはいたものの、これやっぱりビックリするね。いやいや、だって加藤嘉は「砂の器」ではハンセン病のオヤジを演じ、日本中を泣かせに泣かせた役者さんですよ。それがセリフを喋る間もなく速攻でゲロ吐いて絶命。「八つ墓村」はこういう映画なんだよオメーラ覚悟決めろよ、という宣言なのだろう。この映画は毒殺が多いんだけど、ゲロ吐いたり血ィ吐いたりアワ吹いたりで、生理的にたいへん不快です。ちなみに加藤嘉は後半の回想場面に出てきて、セリフも喋ってた。よかったよかった。

戦国時代、村人が村祭りと見せかけて落ち武者たちを殺す場面。血がブシュー。田中邦衛首チョンパ。カマで胸ザックリ。手ザックリ。火がボーボー。しかし、単なる血まみれゴアシーンのラッシュではない。テンポはむしろゆっくりしている。そして事あるごとにいちいち役者が顔を歪め、ここぞとばかりにギャーとかギニャーとか断末魔の叫びをあげる。苦痛表現がしつこいのである。サプライズでビックリさせるのではなく、イヤなものをしつこく見せることでショッキングな描写を成立させている。80年代のスプラッタ映画ではなく、明らかに70年代のショック映画特有の演出だ。つまり、実にイヤな気持ちになるのである。

山崎努演じる多治見要蔵の32人殺し。山崎努の奇妙な扮装、恐ろしいメイク、容赦なき攻撃性。虫けらの如く、しかし苦痛表現はしっかりカマして死んでゆく犠牲者たち。スローモーションの幽玄な美とノーマルスピード撮影のミもフタもなさの按配が素晴らしく、悪夢そのもの。ガキの頃、何度この場面の夢を見たことか。山崎努からは、絶対に逃げきれないんだよ。

クライマックスで夜叉のような顔に豹変し、ショーケンを襲う小川真由美は凄まじい。ここにおいて、この映画がミステリではなくオカルトであることがついに判明する。カットバックによる同時進行で探偵たる渥美清が村人相手に謎解きめいた説明をするのだが、この説明の空虚さがまた凄いんだ。ミステリとしては零点であろう。だいたいこの映画の金田一耕助は頭脳の冴えというものを何ひとつ見せないのであるが、証拠も根拠も何もなく、ただ小川真由美が犯人だと決めつけて、あとは祟り説を補強するばかり。たたりじゃのババアと変わらない。ミステリらしい論理展開は何もなく、この場面すげえ雑というか、投げやりなんだよな。地下の洞窟ではショーケン死にそう。小川真由美が超怖い。洞窟を追われたコウモリが多治見家に飛んできて、仏壇のロウソクを倒し、多治見家炎上。このくだりなんか、整合性のカケラもないピタゴラスイッチだ。ショーケンなんとか生きのびて、燃える実家を見て呆然。丘の上には8人の落武者たち。仇敵の一族の屋敷が焼け落ちるさまを見て笑ってる。おい、現代劇なのに落武者出てきたよ!! たたりじあ。八つ墓村のたたりじああ。

なんとこの映画では、祟り、亡霊、因果応報、天罰テキメン、イタチのノロイといったものが本当にあることになっているのだ。400年の祟りの前では、金田一少年の猿知恵なんて無力なものである。しかし、しかしですね、本来の推理小説の精神としては、事件がどれほど不可能に見えても超常現象に見えても、必ずや明晰なる論理が旧時代の因習を打ち破り、文明開化の精神が到来してくれなくては困るのである。たぶん横溝正史の原作だって、そこは守っていた筈なのだ。どうでもいいけど横溝正史、角川文庫の表紙がどれもこれもゲロ怖いじゃないですか。あんなおっかない本、家に持って帰りたくないよな。でも当時はバカみたいに売れたんだよなあ。

犬神家の一族」に代表される市川崑金田一ものは、みんな好きだろうがオレも好きだ。なにしろエンターテインメントとして優秀だ。タイポグラフィ芸、鮮やかなカッティング、石坂浩二のハマり具合、艶やかな女優たち。スタイリッシュでカッコイイよな。対して野村芳太郎の「八つ墓村」は、スタイリッシュとは程遠い。気が利いてるとも言いがたい。しかし何だか途方もなく骨太な、ドス黒いエネルギーのようなものを感じる力作だ。やろうと思えば「砂の器」を作れる実力の連中が、観客にイヤなイヤなショックを与えてやろうと一致団結、全力投球した結果、ミステリがオカルトに化けてしまったのが「八つ墓村」なのだ。功成り名を遂げた映画監督や脚本家や音楽家たちが、揃ってその方向にノリノリになる動機というものがオレにはやっぱり理解できないのだけれど、忘れたくても忘れ難いイヤなイヤなおもしろ怖い映画として、「八つ墓村」はオレの人生に刻みこまれちゃっておるのであった。