大人のやさしさが子供の地獄となる悲劇 「ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃」

先日、開始以来20年近く聴いているラジオ番組「伊集院光 深夜の馬鹿力」で「ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃」(1969)の話が出まして、懐かしいなと思ってDVDで再見した次第。

ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃 [DVD]

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Wikipedia - 「ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃」

Wikipediaを見ていただくと判るように子供が主人公であり、怪獣は子供の夢の中に登場するだけの存在である。つまり厳密に言えば怪獣映画でさえない。円谷英二の不在や予算の減額といった様々な制約の中で無理やりでっち上げられた作品で、過去作品のフィルムをバンバン流用している。おっさんになってから観てみると(伊集院のトークの影響も多少あるものの)、自分の中にガキの頃とはまた違う感慨が生まれてくることを知った。

怪獣島、怪獣島、応答せよ (★2)
季節のない街に生まれ、排気ガスと煤煙を胸いっぱいに吸いこみ、ガキ大将にはいじめられ、共働きの両親とは顔を合わさず、気を許すのは心優しき社会不適合者の天本英世だけ。カギっ子の一郎君がガラクタをコンピュータに見立てて夢の中の怪獣島に逃避すれば、そこでは弱いミニラがガバラというガキ大将と同じ名前の怪獣にいじめられている。子供の心が発するSOSとしては数え役満みたいな状態で、現代なら児童相談所やカウンセラーが介入してもおかしくないケースかもしれぬが、少し後の世代のオレから見ても当時こういう子供たちは少なくなかったと思われる。どうやらこの世は楽しいばかりの天国じゃないらしいと気づきはじめたガキンチョがのめり込むのは、たいていはまともな大人がバカにして唾を吐く類のたわけた絵空事だ。時代によってそれは怪獣だったり、モビルスーツだったり、タイガーマスクだったりしてきた。今、おっさんの視座から観るならば、『オール怪獣大進撃』は興味深いテーマを多く含んだ考えるに値する映画だ。同時代の社会問題と向き合う姿勢は『ゴジラ対ヘドラ』へ受け継がれてゆくものだし、フィクションに逃避することで日々救われている少年像は怪獣映画の観客そのものと言える。エヴァンゲリオンより30年早いメタ映画なのである。この映画の子供たちへのやさしさは尊いと思う。安易な解決には飛びつかぬ慎み深さも好もしく思える。少年は誰の助けもアテにせず、いじめっ子と闘い、困難を克服せねば先へは進めない。

しかしガキの頃にこの映画を観たオレは、そりゃーもう絶望的な気分になったものだった。控えめに言って死にたくなった。この煮えたクソみたいなホンワカムード。破壊力ありすぎの主題歌。怪獣はすべてガキの妄想。子供だましのジャリ番(ジャリ向け番組)ではないか(と子供のオレは思った)。オレは怪獣が世界を蹂躙する、映倫もブッ飛ぶハードコアを観たかったのだ。カギっ子の妄想につきあわされ、悔しさに涙を滲ませたガキどもは多かった筈だ。これほど愛情にあふれ子供にやさしい映画が、その視聴対象である当の子供にとっては地獄の苦行になってしまうという、このねじれた現象。人類史の中で繰り返されてきた、やりきれぬ悲劇のひとつだ。多くのガキンチョどもは一丁前に傷ついて、怪獣映画を卒業してゆく。そしてひどい目に遭ってなお卒業しきれなかったボケナスどもは、おっさんになっても癒えぬ傷を抱えたままコンピュータのキーボード叩いてCinemaScapeに長文レビューを書くという寸法だ。なんだ、今もやってることは一郎少年と大差ねえんだな。怪獣島、怪獣島、応答せよ…