気に喰わねえ 「アリスとテレスのまぼろし工場」

「アリスとテレスのまぼろし工場」を観てきた。

岡田麿里の前(監督)作「さよならの朝にナントカカントカ」は円盤で観て、気に喰わねえな気持ち悪いなと思ったものだ。「アリスとテレスのまぼろし工場」は劇場で観たわけだが、気に喰わねえな気持ち悪いなと思った。以下、ネタバレあり。

90年代初頭には道の駅がないのでドライブインがある

園部さんかわいそう (★2)


画面の奥にあるやりたいこと言いたいこと時代の気分はまあ判る(と思う)んだけど、目に見える側の建てつけが相当歪んでるのでグ… グムーとなる。父親と叔父さんがメチャ似で見分けがつかず、常にこいつどっちやねんと思わされるとかそれ必要? と訝しんだ。


まぼろし世界が止まってるのは90年代はじめで、インターネットは存在せず、携帯電話は普及しておらず、家の車は日産パオで、ラジオを聞くのはドデカホーン的な大仰なラジカセだ。ケータイとネットがないのは実に御都合がよろしいなと鼻白んだ。中学校の体育で女子がブルマ姿なのは明らかにオレへのサービスだが、そんなご機嫌とりにホイホイ乗ってたまるかよ、べべ別に嬉しくないんだからね! とも思う。


この時代に幸福を享受した70年代後半生まれのガキンチョ群が、おっさんになった現代も相変わらずアニメばかり観て思春期をもっちゃもっちゃ反芻していることへの苛立ち、ひいては砂糖菓子のような思春期アニメを再生産し続けるアニメ業界への苛立ちが岡田麿里にはあるのだろう(岡田自身が76年生まれ)。ただその苛立ちに、オレがつきあう義理はないんだよな。止まった世界を変えたい話なのに、映画は止まった世界を描くことに夢中に見える。ノスタルジーに閉じ込められてるのは観客よりも映画の方じゃないのか。岡田麿里に疎いから全然的外れかもしれないが、映画を観てオレはそう思った。


クライマックスはとってつけたようなもので、ポカンと眺めるだけだ。ミッションは現実世界から来た娘を現実に帰すというものなのだが、まぼろし世界と現実の設定、経路、方法、難度、何もかもが作り手の御都合サジ加減から生まれるものでしかない以上、ドキドキもしないしハラハラもしない。どうでもいいと感じる。映画における運動、つまりアクションというものの原理を判ってないとしか思えなかった。まあ興味もないのになんでもカミサマのせいにするアニメに言うても栓ないことではあるのだが。


岡田麿里は、言葉を信じている創作者でしょう。言葉にできれば、どうにでもなると思ってる。オレは言葉なんか信じない。オレは画しか信じない。アニメならば尚更だ。まあ自分が岡田麿里作品と合わないんだろうなあ。