大文字三郎を探して

1992年10月23日、日本武道館UWFインターナショナルの興行において高田延彦vs北尾光司の一戦が行われた。詳しくはこちらを。

神様が降りて来た夜(1992) - 【腕ひしぎ逆ブログ】

当時20歳だったオレは武道館2階席の後ろの方、つまりいちばん安い席でこの試合を観戦した。そりゃーもう小便漏らすくらい興奮したものだった。高田延彦の最高傑作と言ってもいいこの試合だが、歴史の中で忘れ去られつつある引っかかりがオレの胸のうちには残っており、そのことを書き残しておきたいと思う。

当時、北尾光司は困ったちゃんの現代っ子だった。大相撲で横綱を張るもいろいろやらかして廃業、スポーツ冒険家を名乗るも実績は週刊プレイボーイで人生相談コーナーを担当する程度、新日本プロレスに参戦するもしょっぱい試合を続けた挙句に長州力に民族差別発言をぶっかけて契約解除、SWSに参戦するもアースクエイク・ジョン・テンタ八百長野郎とマイクで叫んで解雇。良識ある人々が眉をひそめる鼻つまみだったわけだが、個人としての北尾は旧弊なる80年代の角界でパソコンを嗜み、ナイフマガジンに連載を持ち、テレビアニメ「赤ずきんチャチャ」に耽溺した。オレは北尾に、早すぎた現代オタクの肖像を垣間見るのだ。後の佐竹雅昭は特撮映画好き、高山善廣(回復をお祈りしています)は田宮模型への就職も考えたというプラモ/RCカーマニア、棚橋弘至はライダー好き、獣神サンダーライガーは怪獣フィギュア造形職人。いずれも「男の子」趣味のレスラーが多い中、少女漫画原作のアニメ「赤ずきんチャチャ」にのめりこんだ北尾光司の先進性は現代でこそ再評価されるべきである。いやこれは余談であった。

さてSWS解雇後、1991年のどこかの時点で北尾光司は突然記者会見を開き、今後は武道家として生きてゆくとの宣言を行った。北尾は「空拳道」なる武術を学んだと言い、ノースリーブ空手着を身に纏って摩訶不思議な構えを披露したものだ。諸兄は覚えておられるだろうか、北尾の傍らには空拳道を創始した武術家、大文字三郎が口髭を蓄え佇んでいた。北尾は大文字氏に師事したおかげでそれまでの反抗的態度を改めたという。その言葉通りに北尾は深々と礼をし、人が変わったような殊勝な態度を見せた。そして自分の参戦を受け入れてくれる勇気あるプロレス・格闘技団体を募ったのだった。

この記者会見を、当時オレは週刊プロレスで知った。態度を改めたとはいえ、問題児のイメージが強すぎる北尾にオファーする団体はなかなか現れなかった。プロレスファンはしょっぱい北尾を嫌っていたが、それでもシンプルに「強い」んだろうとは思っていた。しかし、プロレスはシンプルじゃない厄介なジャンルなのだった。

1992年になるとUインターが北尾参戦を受け入れ、山崎一夫戦が実現する。北尾はちょっと反則気味に圧勝し、冒頭に書いた日本武道館での高田延彦戦へと繋がるのである。ただ、ちょっと記憶が曖昧なのだが、山崎戦と高田戦の間に北尾は空拳道つまり大文字三郎氏のもとを離れ、フリーの武道家という立場になっていたと思う。

北尾のその後はともかく、オレの記憶に強烈に残ったのは聞いたこともない「空拳道」なる武術と、怪老人にしか見えない大文字三郎なる人物の姿だ。いったい、空拳道とは実在する武道なのか? 大文字三郎というあまりにフィクショナルな名前のこの人物は何者なのか? どこかのタレント事務所に所属するおじさんなのではあるまいか? 不思議なのは当時のプロレスマスコミからも、後の北尾自身からも、大文字三郎氏についての突っ込んだ記述や発言がオレの知る限りまったくないのである。現在、ネットで調べると大文字三郎はかつてプロカンフーなる興行の選手として活躍したとする記述を見つけられる。「プロカンフー」、またよく知らないものが出てきて当惑するばかりだ。ともあれ、北尾絡みの一件以来オレの胸中では大文字三郎タレント説がじわじわ大きくなっていきつつも、この不思議な人物のことはいつしかだんだん忘れていった。なにしろ僕にも生活があるのです。

そしてあれから四半世紀を経た今(マジで25年経ってしまった)、極めて興味深い書籍を読む機会があったので、格闘ロマンの道を突き進む仮面貴族の諸兄に報告したいと思った次第である。前置き長くてすみません。

須田耕史「空拳の道・大文字三郎伝」は、1988年に上下巻で出版された。著者プロフィールを読むと、この須田さんは熊本県立図書館に勤務する司書(当時)である。なぜこの人が、よりにもよって大文字三郎伝を書いたのかは全然判らない。

口絵写真と、その解説がこれ。

内容はざっと以下の通り。

昭和18年長崎市に生まれた大文字三郎。母親に背負われていた2才の時、幸運にも辛うじて原爆の閃光から逃れることができた。父は真言宗の雲流寺(調べたが現存しないようだ)の修行僧。厳しく育てられ、剣術と空手を学ぶ。青年期、返還前の沖縄に密航し、沖縄空手(唐手)をマスター。再び密航して鹿児島にたどり着く。九州を徒歩で北上しつつ、空手道場があれば手合わせを申し込み、ことごとく圧勝。全勝のまま福岡に着いた時には、三郎の強さに心酔し着いてきた幾人もの弟子たちがいた。福岡市に念願の道場を開くも、絡んできたヤクザの刃物から友人を守るために闘い、ヤクザを1人殺してしまう。裁判が行われ、過剰防衛との判決ながら執行猶予となる。ほどなく、中国拳法を学ぶために国交回復前の中国へ密航。見込んだ師に入門するが、門下生の少年に生涯初の敗北を喫する。しかし3年で中国拳法をマスター、少年より強くなる。口髭を蓄えて帰国した三郎は空手と中国拳法をミックスさせた新武術「空拳道」を旗揚げ。京都武徳殿で披露し、全国の空手師範の承認を得る。三郎は新たにテコンドーを学ぶため、韓国へ旅立つのであった。

以上のような筋書きに加えて、幼なじみの女性とのプラトニックな恋の顛末、典型的な悪役空手家との沖縄時代からの因縁などが描かれる。

お気づきだろうが、梶原一騎の「空手バカ一代」の影響は絶大だ。こんな本の内容なんて、どこまで本当か判ったもんじゃない。ほぼフィクションと考えていいだろうと思う。しかし、口絵の解説にある「11か所に支部」「9000名の門弟」といった記述までもがフィクションなんだろうか。さすがにそんな即座に検証可能な嘘八百は通用しないのではないか。…いや、しかしインターネットのない1988年、思いっきりウソでも平気で通用したのかもしれないなあ… ネットの発達した2017年でさえ、経歴にフィクションを纏った山師が後を絶たぬ世の中だ。

しかしねえ、これ全部ホントだったらどんなにいいだろうと、わたくしそんなことも考えてしまうんですよねえ… 格闘技通信もない昭和の時代、九州の空手の新流派なんて中央のマスメディアにとっては存在しないも同然、三協映画やクエストのVHSの中にだけ存在する虚実がケイオスと化したファンタジー武術の底知れぬ魅力… しかし、今や世界中に普及してMMAに欠かせないブラジリアン柔術だって、第1回UFCが登場した1993年にはそのようなフィクショナルな存在に見えたものだった、我々の眼力なんてそんなもんなのだということは忘れずにいたいと思うのである。

さて夜な夜なネットで大文字三郎サーフィンを楽しむうちに、ツイッターでこんな情報を知った。

これは是が非でも観ねばなるまい。大文字三郎への旅はまだ続く。