ワープロを観て永田さんを考える

久々に新日の放送を観る。永田さん張りきっているなあ。しかし、こんな状態になった今の新日で、型通りのプロレス内でいくら張りきっても評価されないんだよなあ。ちょっと元気な試合をしたところで、蝶天相手では正直オレも評価できないんだよなあ。
永田裕志というプロレスラーには、良くも悪くも現代のプロレスを象徴しているような節がある。永田さんといえば何はなくともミルコとヒョードルにバカ負けした件だが、実は格オタはあんなことは永田さんの存在と共にもう忘れているのではないか。あれが未だに引っかかっているのはプオタだけではないのか、まったく寂しい話ではあるが。
晦日の格闘技興行という大きな舞台で2度の醜態を晒したことで永田さんのプロレスラーとしての価値は大暴落した、というのがまあ一般的なプオタの意見であろう。しかし賢明なる皆さん、これを真に受けてはいけません。なぜなら永田さんはあれ以上の醜態を普段のプロレスのリング上でもちょくちょく見せているからであり、それは斜陽のプロレス界の中の小さな出来事ゆえに広い世間には届かなかった、要するに「さいわいまだ世間にはバレてない」というだけの話なのだ。
永田裕志が「サラリーマン・プロレスラー」であるとはよく言われることだ。ではサラリーマン・プロレスラーとはいったい何なのか? この場合の「サラリーマン」は、明らかに蔑称として用いられている。サラリーマンは会社の歯車、声高な自己主張はせず、毎日の満員電車通勤に耐え、言われた仕事を黙々とこなすだけの面白みのない存在というお定まりのイメージだ。
このイメージが永田さんの定義として不充分であるとオレが感じはじめたのは、2003年大晦日ヒョードル戦からであった。あれはもう本当にみっともない試合だったけど、上記のようなイメージで充分説明できるものとも思わなかった。あの時から永田さんはオレの喉の奥に引っかかった小骨のような、気になる存在になった。これはちょうど、昔のサイキック青年団北野誠竹内義和木村健吾に感じていたような引っかかりと同じものかもしれない。
永田さんをサラリーマン・プロレスラーとして切り捨てるのではなく、現代という時代を象徴する「リアル・サラリーマン・プロレスラー」として再定義する必要があるのではないか、と思うのだ。再定義イコール再評価ではないので、それで永田さんの株が上がるということは多分絶対にないと思うが、あんなザマの永田さんにも三分の理といいますか、五分の魂といいますか、そういうもんがあるのではないかと。そして、現代のサラリーマンの皆さんは、本当は永田さんにこそ肩入れし感情移入できるのではないか。永田さんには新しいプロレスの可能性が、プロレスの未来が隠されているのではないか。たとえそれがオレのような昭和のプロレスファンにとって気にくわない未来であっても、オレはそれを考えること決して吝かではない。と、オレはだいたいこんなようなことを思っているのだが、もう疲れたのでこのへんで寝ます。